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2018
11.28

「いをのぼりぬれば・りうとなる」

Category: 未分類

  朝晩、寒さが身に沁みる季節となってきました。朝の聖教配達もいよいよこれからが本番です。「この冬も自分は休まずに配達するのだ。暖かな春の日差しが降り注ぐ日まで・・・」  朝、5時を回って布団から抜け出すときに、御本尊様、池田先生のことを思いつつ、「さあ、今日も師匠との誓いを果たす一日としよう」・・・そう思い、暖かな布団を蹴とばして一日の行動開始です。

「このたきにををくのふなあつまりて・のぼらむと申す、ふなと申すいを(魚)のぼりぬれば・りうとなり候」(上野殿御返事1560p)

 今朝の「御書と歩むⅡ」に紹介された御文です。本当に素晴らしい御文ですね。滝を昇ることは人にとっての試練であります。その試練に勝ち切れば竜となる。竜とは「仏」だと言っていいでしょうか。

 私の尊敬する信心の先輩は。この御文を拝した時、「いつか仏になるのではない。今、仏だと決めきりなさい」と教えてくださいました。私もそれ以来、その心でやってきました。「私は仏なのだ」そう決めきることによって、仏の姿が現れ、振る舞いもそうなっていく・・・御本尊を信じることは自分自身を仏だと信じ切ることに他ならないのです。


朝焼け②



 先日、ある学会の地域の先輩の方が私のことをこう言われたそうです。「よくあの男は学会をやめなかったな。私はきっと学会を去って行くと思っていたよ」と・・・

 私は若いころ、組織嫌いで組織に出ていなかったのです。男子部時代にもほとんど一人拝むぐらいで、組織についてやるだけの生命力も、素直さもなかったのかもしれません。そうした反抗的な私の姿勢を見て、その先輩は心配されたのでしょう。

 しかし、今、私は地域の先頭に立ち、同志の方と広宣流布に向かい疾駆するまでに変貌を遂げました。日々、生命が革新していくことを感じながら、さらに成長したいと念じつつ、信心に励むことができる・・・自分自身の変わりようにも驚いてもいますが、そこになぜか自分の力ではない、大きな力によってここまで連れてこられたような、不思議な思いがするのです。

 私自身、今も悩み満載の身です。決して何不自由のない生活をしているわけでもありません。毎月のお金のやりくりにも苦労しながら、腎臓がんをやった疲れやすい体をなんとかなだめながら、家内の病との戦いも抱えています。しかし、悩みが深いければ深いほど、「面白い・・・やってやろうじゃないか。今に見ていろ!ここから信心の力を証明して見せるのだ」と、そう心が燃えてくるのです。

 法華経の信心の素晴らしさの一つは、不幸に負けないということです。それを証明するために、自分はのっぴきならない不幸を演じているのだ・・・そう思えば、心はいつも強気であり、攻勢に転じることができます。

 「御本尊様と創価学会にこの命を捧げ生きていこう・・・後は「煮るなり焼くなり」好きになさってください!」と、腹を決めれば、なぜか心にはさわやかな青空が広がっていくではありませんか?(笑)

 苦難の中を呵々大笑しながら、今日も妙法のエンジンをブイブイと鳴らして前進することができる。そのわけを聞かれれば私はこう答えるでしょう。「それは私が仏だからです」・・・と。

 さあ、今日も同志の皆さんと共に、希望と歓喜の創価の大道をまっしぐらに走っていきたい・・・まさに学会の信心は人生勝利、三世勝利の歓喜の無上道です。その生命歓喜の歌を歌いながら、時に舞いながら、私は朗らかに前進してまいります。




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2018
11.16

身に説法、心に説法

Category: 信心


 御本尊様はきっと我々を幸福にするために、口ではお話されませんが、毎日、「身に説法、心に説法」をくださっているのでしょう。法華経の寿量品には、「毎自作是念」(毎(つね)に自ら是(こ)の念を作(な)す)とあります。休むことなく衆生の幸福を思っていてくださるのですから、こちらも休むことなく御本尊様を求めていかねばなりませんね。

 説法と言っても、こちらも耳を澄ましたり、思索したりしませんと、ぼんやりと過ぎてしまうことだってあります。毎日の出来事の中に、自分自身を知る機会は実に多いものです。「奥さんとの些細な口喧嘩」(笑)にしても、「会員さんとのやり取り」にしても、一日の諸法にこちらの人間性や境涯が、ことごとく映しだされると言っても過言ではありません。それをどう捉えていくか・・・そこに「信心」はあるはずです。

 ある時のことですが、私も自分の生活上において苦しんだことがありました。その苦しみを打開するために、学会活動にも熱心に取り組んでやっていたのですが、ところがいつまでたっても打開できません。そんなわけでつい御本尊様にも文句を言いたい気分にもなっていました。「こんなに頑張っているのにどうして?」と・・・

 そんなある日のこと、ふと気がついたのです。「あれれ?俺はこの苦しみから逃れようとして、そのことばかり御本尊様にお願いしているじゃないか?」「一日も早く、この苦しみが消えてなくなりますように!と、本当はそう祈っているだろう?」

 「その一念は「宿命転換」ではなくて、現実逃避だよ。御本尊様拝みながら他力本願な念仏やってどうする?」と・・・そこで初めて目が覚めた思いがしました。「御本尊様、私が間違っていました。今日よりは心を入れ替えて、自力で壁を破る法華経の信心をします。」その場でそうお誓い申し上げました。

 私たちはつい苦しみから逃げ出したり、甘い姑息な解決を願ったり・・・浅ましい爾前の心にとらわれがちです。宝くじが当たるような幸せをつい妄想しますが、信心に「棚からぼた餅」もなければ、「信心しているから何とかなる」もありません。鑿(のみ)を手に固い岩盤を掘り下げていくように、自分の苦悩と正面から向き合って戦ってこそ、信心の力も威力を発揮するのです。

 活動を熱心にやっても、一念が念仏臭くては、これでは打開できない・・・自分の苦悩から逃げ出さずに、信心でその壁にぶつかり、自力で壁をうち破っていこう・・・その一念が私には弱かったのです。そのことを御本尊様は辛抱強く、私に教えようとされたのだ・・・そう気づかされました。

 「煩悩よ!今日から俺は一歩も引かずにお前の相手になろう。さあ、かかってこい!」・・・そういう心境に立ちますと、生命には逆境を跳ね返す気力が充満します。悩みはあれど心は清々しく、「一切は自分を強くしてその力で打開するのだ」と、そう思えます。環境は同じでも、前と違って心が強く負けないのです。

 もしあのまま悩みから逃げ出していれば、一時的に楽になったかもしれませんが、私という人間は何ら「人間革命」することなく終わったことでしょう。しかし、その宿業と正面から向き合って戦った分、私は負けない自分となって、「宿命転換」することができたのです。

 そういうところに、自分が変わりゆく、「人間革命」の醍醐味があると言えないでしょうか?これからは何が起ころうと、すべてを自身の生命で受けきって、正々堂々、自身の力を信心で磨いて乗り越えていく・・・そのことを学んだのですから、まさに闘争者の心境です。この信心は何があろうと逃げ出してはいけない信心なのです。

 これが私がいただいた仏様からの説法であり、数年、苦しんだとはいえ、今となっては本当に素晴らしいことを教えてくださったと、感謝している次第です。





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2018
11.02

浄土と云ひ穢(え)土と云うも・・・

Category: 信心

 人が生きていく上で必要なものはたくさんあるでしょうけど、楽しく生きていくために一番必要なものは、私は歓喜と感謝の心ではないかと思います。私自身、歓喜や感謝には縁遠く、むしろ苦しく不満の多い生命で長年、生きてきたわけですが、ここにきてようやくいろんなところで歓喜や感謝を感じるようになりました。

 そうなってみますとその心で生きていくことが、とてもいいことだということがわかります。心に歓喜と感謝があふれていれば、その人の心は清々しく、人からも愛されるに違いありません。それがまた諸天を喜ばせ、幸せを招き寄せることでしょう。仏法では四恩ということを説いていますが、親や家族を始め、まわりの人に感謝できるようになれたら、それだけで自分を幸福だと感じられるものです。逆に愚痴や批判、不平が心に多い人は、自ら苦を招く因を作っているのだと思います。




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 信心をして功徳を受けますと、生命が清らかになっていくことを感じます。功徳とは悪が滅し、善が生じることだと言われます。また「六根」が清浄になっていくとも説かれています。汚泥に染まったこの命が浄化され、清らかになっていくのですから、おのずとさわやかになります。悶々とした心が風呂上がりのようにさっぱりとしたりもします。そうなると見るもの聞くものが清らかで楽しく感じられる・・・地獄界か畜生界のように感じる私の国土世間も、「ここが宝土なんだ」と少しずつ思えてくるのです。


 自分の生命を仏と悟れば、自分の住む世界が仏国土となることでしょう。仏のいるところ、どこであれ仏国土ですから、仏様が地獄界に行かれたなら、そこはたちまちのうちに仏国土と変じます。餓鬼の生命の人にとっては、どこにいようとそこは餓鬼世界です。境涯が変わらないのに、よそへ移っても、根本的な解決にはならないというのはそういうことだと思います。

 「浄土と云ひ穢(え)土と云うも土に二の隔(へだて)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(「一生成仏抄」384p)と、大聖人様が仰せの通り、人の幸不幸はまさに境涯、心の善悪によって決まるのですね。

 私は今では、学会活動が楽しくできるように変わってきました。以前は渋々嫌々やっていた時もあったのです。信心は体、生活は影ですので、信心の活動に不満があるならやはり生活にも不満が出ます。それが今では小さく地味な活動であっても、喜んでやれるようになりました。そうなると活動がそのまま御本尊様への報恩感謝の行動となり、ありがたさの方が勝ってきます。

 学会活動に不満をいう人に対しては「それってもったいない話や。学会は喜んでやればいくらでも功徳がもらえる「宝の山」なんや。おもしろくないというのはやらされてるからと違うか?」と、私は言うでしょう。学会が宝処・仏界に見える私の眼は、学会不信の人から見たらさぞかし「おかしなやつだ」と思えるのでしょうね。(笑)

 信心の功徳はお金には変えられませんが、変革した生命はいつでもどこへでも持っていけます。ですから金の亡者になるよりは信心に熱心な方がずっと得です。信心こそ無上の宝です。私も日々の唱題と学会活動で、歓喜と感謝の生命をさらに磨いて、我が生活、我が人生を一新したいと、そう決意して日々の戦いに挑戦しています。




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