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2019
02.25

我が苦しみを良き友として・・・

Category: 徒然の記
 
 寒さも少しづつ和らいできたのか、あちらこちらで梅の花も咲き始めました。それに合わせて生命も躍動してきます。花粉症の人にはいささか憂鬱な季節かもしれませんね。

 信心に行き詰った時、また惰性を感じる時・・・そんな時に時間を見つけて学会の出版物を手に取ることはとても大事なことではないかと思います。私の先輩も池田先生の指導や書物を読みたくない時は、信心の黄色信号だと言われていました。私もそれはその通りだと思います。

 特に近年は大白蓮華がとても充実しているように思い、私も手元においてよく読みます。今朝は早くも3月号が届きました。池田先生の巻頭言、御書講義、信心指導と私にとっては一番頼もしい味方です。人それぞれ感じ方は違うでしょうけど、池田先生の言葉は命の底にずどんと響くような、時には先生の生命に直に触れるがごとき思いさえします。生きた言葉とはまさにこのことでしょう。

 疲れた旅人があたかも砂漠の中のオアシスに出会うように、先生の生命から発せられる言葉は真金の言葉となって、正しく衆生を導くものと思います。指導を黄金水のごとく日々研鑽しながら前進できる・・・それが一生かかっても読み切れないほどの著作を残されているのですから学会員は幸せです。こんな師匠は世界中どこを探してもいない・・・どのページをめくっても、生命の深い真実がある。求道の人にとっては、常に手元において開くべきものと思います。

 2月号の大白蓮華の「仏法哲理の泉」では、「願兼於業」について書かれています。
「願兼於業」を身で読む人は法華経の軌道に載って信心をしていく人です。それは悪しき宿命を自ら願って生まれ、その宿命を歓喜の使命へと転じ、その姿で同じ境遇の人を救っていくというのですから、並大抵の決意でやれることではありません。

 「こんなひどい業を私は願った覚えはない」・・・誰しもそう思うでしょう。身体も健康で、お金も不自由なく、スタイルも性格も頭もよく・・・そんな自分を願うならわかりますが、貧乏に病気、家庭不和に失業と、「そんなこと願った覚えがないのだが」・・・私など何度そう思ったことかわかりません。

 凡夫の眼はそう見ますが、仏の眼はそうではない。

池田先生: 「いかに進退きわまった、業にしばられたような境遇にいる人であっても、その本質を見れば、願兼於業の人生であることを示されているのです。(中略)すなわち宿命を使命に変えた場合、その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。宿命を使命に変える人は、だれ人も「願兼於業」の人であると言えるでしょう。だからすべてが、自分の使命であると受け止めて、前進しぬく人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです。」

 「人の苦しみをわかるために、私も娑婆の苦労を引き受けよう!」「悩んで苦しんでもがいて、私も生命の本質に到達するのだ。」私もある時からそんな思いでやってきました。悩みや苦しみにはその時にはわからない実に深い意味があるものです。

 濡れたタオルを軽くしぼれば、しょぼしょぼと水が落ちる。しかし全身全霊でしぼれば、奥に染みついていた悪汁までどっと出てきます。それを転じて仏になるなら、悪業が出るのも耐えねばならない・・きっと深い意味がある・・・むしろ私を幸福にしたい仏様の慈悲と心得ていこうと思います。

 「願兼於業」の本質について、先生は最後にこう記されています。

     一番苦しんでいる人の中に、生まれてくるのです。
 
     一番苦しんでいる人の中に仏はいるのです。
 
     一番苦しんでいる人を、一番幸福にするために仏法はあるのです。


 
 この言葉を深く心に刻みながら、苦しみを決して厭(いと)わず我が良き友として、今日も朗らかに人生ドラマの主役の座を張って、前進していきたいと思います。





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2019
02.04

寒椿

Category: 信心


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今朝の池田先生の「四季の励まし」(3日付聖教新聞)の一節にはこうありました。

「人生の価値とは記録への挑戦から生まれる。自分のこれまでの最高記録をどう更新し、書き改めるか。その挑む姿勢から、勝利と満足の人生が開かれていく。」

「日蓮大聖人は、自らを”法華経の行者”と言われた。行者とは行動の人であり、行動してこそ真実の仏法者である。」



 人と比較するのではなく、昨日までの自分を越えていく・・・それが成長ということではないでしょうか?これまで以上の戦いに挑んで自身を鍛え上げていく以外に、宿命転換も一生成仏も果たせないものと思います。たとえ今はびりっけつを走っていても、また絶望の淵でもがいていても、それでも前に一歩でも1mmでも進もうとする・・・その一念があれば私は大丈夫だと思います。

 逆に自分の智慧に慢じて、学会の活動を馬鹿にしたり弘教の実践に挑戦もしない人が、一番危ない・・・私は常々そう思います。

 あとは「行動」です。私も今日は、内外の方を訪問、聖教新聞の集金も兼ね、法戦のポスターも地域内に数か所、貼らせてもらいました。「この地域の広宣流布は自分が責任を持とう!」「因習は深くとも勇気を奮い起こしてこの道を進むのだ」との思いで、活動に挑戦しています。

 こんな私も時には人の悩みの相談を受けることもありますが、いつも思うことはその人に「信心で打開するのだ」という心があるかどうか・・・それに尽きると思います。その心があれば、もう悩みは解決したも同然です。なぜなら、仏を信じて広布の活動に励んで解決できない悩みなどないからです。

 実は私もなかなか思うようにいかないところを長くやってきましたが、それには深い意味があるのだということを知りました。それはどういうことかというと、すぐに悩みが解決すれば、私のためにならないということなのです。信心しているのにどんどん苦しいところに追いやられる・・・・凡夫ですから、一日も早く楽になりたいと思います。しかしその苦しみによって、本当の信心の世界に入っていける、妙法で立つしかないという自分へと変貌していったのです。

 もちろん私の信心が本物だとか立派という意味ではありません。それでも以前の私を思えば、信心に向かう一念が変わりました。苦しむたびにより真剣に仏法を求め、実践に挑戦する私が出てきました。今となっては「仏様は谷底に私を落とし、そこから這い上がっていくことで、私を一人前の信者に、また幸福にしてあげたいと思われているのだ」と感じられてならないのです。

 最近は写真を撮る機会も減りましたが、先日は配達途中のあるお宅で、一輪の椿の花が目にとまりました。車に戻り、カメラを取ってきて、外気に凍り付いたその赤い花びらに目を凝らしました。その花は私には宿命と戦いながら、人生の冬を戦い生きる婦人部の方の姿を彷彿させました。

 周りの大半の花は散っていたのですが、この花だけはいまだ凛と咲き誇っています。しかも厳寒の朝、凍てついた霜を身をまといながら・・・・「人もこうあらねばならない」私はそう思いました。獄中の戦いを貫き通された厳しい牧口先生のお姿も心に浮かびました。「私の信念など、牧口先生に比べれば、まだまだヒヨコのようなものだ」と、そうも思いました。

 もっともっと強くしっかりとした師子にならねばならない・・・「一生成仏」とはそういうことなのだ。何があろうとも妙法の信念を貫き通す「人間王者」になることなのだ・・・寒椿はそのことを私に教えようとしたのでしょうか?命の限り咲かんとするこの花に応えるためにも、さらなる行動の人となって、娑婆世界に打って出たいと思います。




※タイトル、文中に「椿」と表記しておりますが、後日、よく見ましたら葉の形状から「山茶花(さざんか)」だと気が付きました。タイトル本文などはそのままにしておきますが、一応、訂正させていただきます。
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