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2019
05.25

「喜捨」の信心

Category: 未分類


 我が家では先日、コシヒカリの田植えが終わり、植えたばかりの小さな苗が水田で五月の風にそよいでいます。これから九月末の収穫期まで4か月余りで米となります。小さな兼業農家ですが、私もちなみに農漁光部員でもあります。

 土を耕し、苗を植え、毎日、成長を見守り、やがて収穫する・・・そういう自然のサイクルにあった仕事は、体はつらいですが、充実を感じますし、そこから多くのことを学ぶことができます。育てるということは何であれ、楽しく生きがいを感じるものです。


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 ちょうど今、わが支部にも、元気な男子部員がいます。この青年を確信ある大人材に育てたいというのが私の願いです。そのことを祈り、ともに行動もしています。青年の成長こそ私の喜びであり、「青年を育てる」という池田先生の心にも適ったことと思います。

 仏法には「喜捨」ということがあります。命を捨てるという意味では「不惜身命」「死身弘法」などの言葉もあります。御書では盛んにこの信心に身命を捨てることが成仏の要諦であると説かれています。そしてその通りの実践をされたのが、創価三代の会長です。命をこの仏法に捨てるというのは、そう簡単にできることではありませんが、半偈のために身を投げた雪山童子の説話にも、いつもそこに信心の真髄があることを教えられ、私は感動します。

 「喜捨」については、「新・人間革命」第四巻凱旋の章で、祇園精舎を供養した須達長者の故事を通して、詳しく述べられています。(その部分を末尾に載せてますので、よければお読みください。)

 日蓮大聖人は「蔵の財」「身の財」「心の財」と人に三つの財のあることを教えてくださっています。その中でも「心の財第一なり」と仰せです。また「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(1596ページ)との教えもあります。「心」「志」で仏になるかどうかが決まります。仏法のためにこの命を使おうという心ほど尊い心はないはずです。その「心」「志」を仏様がどれほど喜んでくださるか・・・必ず功徳となって、その人の生命を荘厳することは間違いありません。

 厳しい宿命と戦いゆく中を「喜捨」の心で活動することは大変です。しかし大変であればあるほど真剣にやれます。また深く悩んだ分、それを乗り越えた時の喜び、菩提は大きいものです。蔵の財、身の財は少なくても、どなたも命は一つあります。私も苦しい時ほど開き直ってというか、もう破れかぶれで(笑)、「この命はいつでも学会に投げ出します」と宣言してやってきました。三毒熾盛(しじょう)のこの命を学会活動に投じて、「常楽我浄」の仏の身に変えてもらうのですから、しぶしぶやるようでは本当に申し訳ない話です。

 五月の陽光に照らされて、田んぼの稲も宇宙のリズムと合致して、これからすくすく伸びていきます。今日、明日には成長はわからずとも、必ず秋には稲となり米となります。私たちの「心の田」にもすでに妙法の種が芽吹いています。植物に太陽と水が必要なように、仏の生命を育むには信力行力が必要です。根を枯らそうとする魔性とのし烈な戦いもあります。強く清らかな信心で生命の奥深く丈夫な根を張り巡らせ、今世に人間王者の凱歌を勝ち取りたいものです。

 「喜んで信心しています!」「学会活動は最高です!」・・・池田先生が目の前におられたら、そう笑顔で報告できるようにありたいものです。「あの人はいつも喜々としているね」「顔や姿が生き生きしているよ」と、周りからもそう言われるように、私も力強く周囲に波動を起こしていきたいと思います。


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2019
05.13

目先の功徳と三世の功徳

Category: 未分類


 先日は全国の会館で本幹衛星放送がありました。中でも芸術部員のBOROさんの活動報告に多くの方が感動されたようです。私の元にも「良かった!」「感動しました」という感想を寄せてくれた方がおられます。

 なぜに皆さんが感動されたのか・・・いろんな理由があると思いますが、私は宿命に負けずに、信心を貫いてこられた信念の心・声が人々の心を打ったのだと思いました。恵まれた環境と才能でヒット曲を飛ばし、悠々自適の生活ならば、「すごいなあ」と思っても、「人間革命」としてはどなたも感動しないはずです。長年、悩みの中を一筋に師弟に生きてこられたからこそ、今、迷いのない確信の境地に達せられた・・・その声の力を感じました。

 「大阪で生まれた女」がヒットして順風満帆に見えた音楽活動でしたが、所属事務所から「音楽をとるか、信仰を取るか」迫られたそうです。事務所としては創価学会の看板、活動を隠したかったのでしょう。それでもBOROさんは迷いなく「信仰」を取り、その後、何年もの間、仕事も干されたそうです。しかし、屈することなく、信仰根本の大道を貫かれました。

 また離婚も二度経験されたそうで、離婚をした翌日に、学会のセミナーに出て人を励まされたそうです。セミナーの後、対話をした人に「自分は昨日離婚しました」と正直に話をされました。一家和楽を掲げる学会のセミナーで、「家庭不和」「離婚」を語ることは、とてもつらかったことかと思いますが、自分を隠さずに語られた。信心への確信がなければ、なかなかできないことではないかと思います。

 私もかつて関西の会合で、BOROさんの歌を、生で聞いたことがあります。その時は、お話はなく歌だけでしたが、苦労を乗り越えたいぶし銀のような力強い声に、私も感動した記憶があります。「声、仏事を為す」だと思いました。

 事務所から信仰を捨てるように言われた時、BOROさんが、目先の利益を追い求めて、信仰を捨てていたならば、いったいどうなっていたでしょうか?一時は良いものの、最後はどんな形であれ、破滅の人生になっていたのではないかと思います。御聖訓には「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業因なるべし」(御書232p)と、明確に書き留めておられます。大聖人様の言葉は絶対です。

 信心をしていても目先の利益に目が眩み、三世永遠の功徳を失う落とし穴が往々にしてあるものです。それは第六天の魔王が、信心を捨てさせようとする謀(はかりごと)であり、BOROさんは瞬時にそれを見破り、信心を選ばれました。まさに絵に描いたように、魔王に試されたと言えます。苦難を覚悟で信心を選んだ強い心に、今は素敵な奥さんと巡り合い、さらなる人間革命を遂げられたBOROさんの勝利の姿がありました。

 「三障四魔」の教えにあるように、信心をすれば妻子眷属を始め、職場でまた地域で、信仰を理由に迫害にあったり、信心をやめるように脅されたり、そういう事態に遭遇します。宗門問題でも私たちは試されましたね。私もかつて上司から、「お前の後ろには池田大作がいる」と、責められ、退職へと追い込まれた経験があります。また親からも兄弟からも、「学会に入った親不孝者」と言われた時期がありました。

 しかし私もまた信仰への強い確信があり、頑として信心だけはやめませんでした。今、地域の先頭に立って、同志の皆さんと広宣流布に邁進できる・・・福運の人生の軌道へと生還することができ、元気いっぱいです。私の生命に潜む不幸へと向かう軌道を、「一生成仏」=幸福への軌道へと転換することができたと確信しています。

 三世永遠に信心を退転しない生命こそが、「一生成仏」の生命であり、本物の功徳だと思います。いかに今の姿が貧しくとも、また人に笑われることがあっても、法華経にだけは傷をつけない・・・池田先生と共に、堂々と信仰の道に勤しんでいく。それ以外に、本当の功徳を得る道など、絶対にないと確信するものです。

 さあ、私もBOROさんの体験に勇気をもらい、りっぱな先輩に続いて、さらなる広布拡大の道を切り開いていきたいと思います。心ある皆さんとともに!


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2019
05.10

「自分なんて・・・」という心

Category: 信心




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 長期の連休も終わりましたが、皆様は有意義にお過ごしになったでしょうか。私はさほどの休みもなく、また田植えの準備や野菜の植え付けなどもあり、我が家中心で過ごしました。これから学会の方もいよいよ7月の選挙を中心に慌ただしくなることと思いますが、気を引き締めて戦っていきたいと思います。


 大白蓮華5月号(99p)には戸田先生の次の言葉が紹介されています。

「この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさい。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい。」
「自分がどれだけ偉大な存在か。それを皆、忘れているのだ。たしかに家に帰ってもたいした食事もない。家も宮殿みたいに大きくもない。だから自分は・・・と卑下するけども、とんでもない!人間それ自体が偉大なのである。いわんや広宣流布をし抜いていく学会員こそ、崇高な仏だ。最高の人間なのである。」


 本当に勇気の湧く指導だと思います。信心する以上はこういう気概でやりたいものです。
「自分なんて・・・」 そう思う気持ちは誰にでもあると思います。私もかつてはそんな気持ちで生きていました。ところが信心を多少していきますと、そうではないという心に変わってきました。自分ほど崇高な生き方をしているものはいない、自分だけでなく人もまた仏の生命であり王者の生命なのだ・・・とそう変わってきたのです。

 「自分なんて…」と言うのは、一見、謙虚に見えますが、まったく信心に逆行した貧乏臭い心だと思います。それは人として、決して言ってはならない、自分も仏も下げゆく最低の言葉なのだと、今はそう思えて仕方がありません。

 「自分は崇高な仏の生命だ」と思うのか、「自分なんて・・・」と思うのか、それは微妙な一念の違いです。ところがこの一念の違いが人生を、またその人の「一生成仏」を決すると言っても過言ではない。信心をして伸びていく人、人間革命していく人は、自分が仏であることを信じている人、この信心に歓喜と誇りを感じている人だと思います。

 逆に信心しているのに伸び悩む人は、やはり「自分なんて・・・」の一念が奥底にある人と言えないでしょうか。それこそ自分の無限の可能性に蓋をする人間不信です。私も人と話をしたときに、「あなたは仏です。もっと王者の気概で自信を持っていくべきです」と励ましても、「いいえ私なんかとてもとても・・・」という返事が返ってくることがあります。聞いていて歯がゆいばかりですが、「自分なんて・・・」という言葉の奥に無明の心に支配された何ともやるせない諦観を感じてしまいます。

 人を励ますとき、私は「あなたは仏ですよ。尊貴な生命ですよ。無限の可能性があるのです。それをこの信心で出しましょう!」とそう呼びかけたい気持ちでいっぱいになります。またそう呼びかけていくのが、自分の使命だと思い、人に接するようにしています。人を讃え励ませば、自分も輝いていく。人や自分を下げる生命から、人を讃え励ます幸福の軌道へと自分の生命を変革していくことが、人間革命の正しき軌道だと思います。

 
 この娑婆世界は第六天の魔王の世界です。。魔王は私やあなたが仏になることを忌み嫌います。そうなられたら、自分たちの所領が仏国土になってしまい、自分たちの好きなように操れなくなるからです。

 ですから、私達の心にありとあらゆる不信の網を張りめぐらし、生気を奪い、諦めの心、絶望の心で覆ってやろうと狙っています。それが「自分なんて・・・」という卑下の言葉となって出てくる。だから私はその言葉が嫌いです。

 とりもなおさず信心は「仏と魔」との戦いです。それは生命根本の無明とそれを具現化して信心を妨げる第六天の魔王と、仏である自分との戦いです。これから「人間革命」と「広宣流布」を目指して、その戦いの土俵に上がる人が、「自分なんて・・・」という心で勝てるはずがありません。自分を仏と信じ、人間王者と決めきって「必ず自分は勝利するのだ」との心で勝負に挑みたいものです。

 そう決めきれれば、もう勝ったも同然です。仏が魔に負けるわけがない・・・妙法の宝剣をもって、颯爽と勝利を目指して、生活にまた広布の戦いに自分らしく挑んでいけます。そこに諸天もいや増して働き、生命に歓喜と躍動が湧現していくに違いありません。

 いよいよ後半戦・・・私もまた、仏の心こそ我が心と腹に据え、「日蓮と同意」の心で、創価師弟の大道を前進していきたいと思います。




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2019
05.01

貴辺にまかせたてまつり候ぞ

Category: 徒然の記
 
 平成から令和へと、元号も改まったこのゴールデンウイークを、皆様いかがお過ごしでしょうか?

 法戦の方も一息つきましたが、連休明けからはまた忙しくなりそうです。こちら兵庫も7月の参議院選挙には新人候補が立ちますが、先月はその候補が私の地区に来られ、田舎の拠点に50名を超える支持者の方が集いました。背の低い私と違い、候補は185㎝の痩身の外交官、一緒に並んで二人で写真を撮りましたが、できれば撮りたくなかったほど(笑)、同じ男とは思えない凛々しき好青年です。なんとしても勝たせてあげたい、そんな思いでガッチリと握手を交わしました。



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 今朝は体にも疲れがあって、シャキッとしないなと思いつつ、外で車を洗っていましたら、向こうから我が家を訪問してくる見知らぬ人がいます。二人連れの女性で、一目見て「○○の証人」というキリスト系の信者だと思いましたら、案の定そうでした。

 仕事の時はお断りですが、今日は時間もありますので、「こんにちは、○○の証人さんですね。」と、こちらから話しかけました。実は私の従弟夫婦が熱心にその宗教をやっていますので、向こうの話の内容はだいたいわかっています。

 創価学会の話をしても、その人たちがそこで改心するということはありませんので、ここはしっかりと下種したいと思い、私は日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」の話を、内外相対や三世の因果の上から話をしました。内道ゆえに宿命転換ができること、また生命や宇宙を貫く法を説き、その法に則って生きていくところに、その人本来の幸福が現れてくることなどを話しました。向こうは神がこの世を作り、神が我々を産み広げたという考えであり、神と信者とは別々です。「そのような外道の生命観では、生命力を強くすることもできず、宿命を打開できない、挙句、正しい法に背くために不幸になるのです」と切り返しました。       

 その間、私はいらだちもせず、にこやかに話をしたこともあり、向こうもよく話を聞いておられました。「何か生き生きとされていますね」と、私を見てそう言われました。(本当は調子よくなかったのですが、話しているうちに元気が出たようです。)
 「あなたがたの生命も仏ですよ。過去の因果もあって、今世はその宗教をやっておられますが、いつか法華経に必ず入ってこられます。その時はまた訪ねてきてくださいね。一緒に幸福になりましょう。」と、そう言って別れました。

 朝からだるかった体も、仏法対話でシャキッとしました。私を元気づけるために、この人たちが訪ねてきてくれたような、突然の訪問でした。

 こちらには私の家からそう遠くないところに、日蓮系の仏立宗というのがありますし、真言や念仏はもとより、天理教や新興宗教もあります。いつかそこの人たちとも対話をするべく、私は常日頃、「会わせてください」と祈っています。仏法を人に語った分だけ、生命の妙法が歓喜して勢いづくことは、どなたも体験されていることでしょう。「人を憎まず、邪教を憎みて」・・・人を救うべく対話に励みたいと思います。


 「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ、仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし」
(御書1467p)

 有名な「高橋殿御返事」の一節です。これほど勇気づけられる御文はありません。その地域の仏法はあなたに任せますと、大聖人様は言われています。「え?私? 何かの間違いではございませんか?ほかにも信者さんが大勢おられますし・・・」などと言ってはいけません。(笑)

 「私に任せられたのだ」「その使命をもってこの世に出現したのだ」「がってん!」と、そう呼応したいものです。姿かたちは凡夫でも、内証は仏との確信を奮い起こし、広宣流布に生きていく・・そう決意すれば、大宇宙の軌道に載って、目先の不幸など小さくなるものです。

 さて、連休は鋭気を養い、栄光の5.3から7月、後半の折伏戦へと、弾みをつけていきたいものです。どうか皆様も有意義な連休をお過ごしください。

 


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