FC2ブログ
2019
10.30

不惜の誓いに生きる(1)

Category: 信心



IMG_3385q.jpg

 
 
 このブログを通じてお知り合いになったある方から、先日、池田先生の「不惜身命と現代」という指導を紹介していただきました。「御書と師弟Ⅰ」(聖教新聞社)という本の中に収められているものですが、それを読んで思ったことを少し書こうと思います。

 この章の冒頭に戸田先生の言葉を紹介されています。「人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも、万人の幸福への根本的な道はない。その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」

 この言葉通りに戸田先生との師弟の道を全うされたのが池田先生です。先生ほど広宣流布に身命を捧げられた人はいない。先生は「私を超える人材に・・・」と常々、青年部に呼びかけておられますが、今後、立派な弟子の方が出現されたとしても、先生を超えるような人材が出ることはないでしょう。「あなたもその一人になってください」という池田先生の言葉は、後継の人への魂からのメッセージだと思えてなりません。

 世間のことにしろ、命を賭けないものに本物はないというのは真実でしょう。その意味で自分が命を賭けるものに出会えるかどうか・・・まずそのことからして至難のことだと言えます。多くの人が命を賭けるものに出会うことなく人生が終わる、また出会えたとしても世間の浅きことや、偏狭な思想に捕らわれて終わることも多いものです。戸田先生が「これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」と言われた仏法に、私たちは出会えました。あとは自分がどこまでやるか・・・自分との戦いですべては決まることでしょう。

 池田先生は「一滴の水は、そのままではいずれ消え失せてしまう。しかし大海に融け込むならば、永遠性の命を得ることができる」と言われています。己一滴の小我を捨て御本尊という大海に、また広宣流布という仏の誓願に命を賭けて戦いゆく時、凡夫の生命が御本仏の大生命と一致し、大宇宙の仏界の大生命と一体化していくのだと教えておられます。

 しかし凡夫がその道を行こうとするなら、容赦ない魔との戦いを覚悟しなければなりません。私も落ちることのないように、毎日発心して前進する日々です。それでも自分が命を賭けてやってみようと思えるこの仏法に出会えたのですから、信心だけは中途半端ではいけない、魔王に堂々、宣戦布告して雄々しくやろうと思っています。

 昨年 法華講から学会へと生還された壮年の方から、今日も相談をいただきました。「友人がいまだ法華講にいるのですが、どうしても自分一人では話が切り出せない、力を貸してもらえませんか?」というものでした。私は二つ返事でOKして、次週の相手の休みの日に一緒に訪問することにいたしました。

 信心のことにはすぐに行動を起こす。善良なる同志の力にいつでもなりたい・・・と、喜び勇んで動く自分でありたいものです。こんな私も今では、学会活動が一番楽しい自分となりました。

 戸田先生はこう言われています。「私は二年間の獄中闘争に勝った。それは己を捨てたからだよ。牧口先生にお供して、広布にわが身をなげうつことを決めたから勝ったのだ。そう決めた時から、何の迷いも恐れもなくなった」

 私たちもその心の万分の一でも命に刻み、この信心に己を捨てる決意で臨みたいものです。それが師弟不二の道であり、何より自身の三世の幸福のためです。それは特別なことではなく、今の姿のまま、今いる場所で、一人御本尊様に誓って行動できます。自分はこう生きようと決めたらあとは前進あるのみです。今の境遇を嘆くこともなく、「ここから反転攻勢の戦いをやってやろうじゃないか!」との闘魂が湧いてきます。

 迷いも恐れも悲観もない・・・そんな不惜の心に立って、今日も明るく元気に前進、前進、また前進です。





Comment:0  Trackback:0
2019
10.23

自分に始まり自分に帰る信心

Category: 信心


 今回の台風でも70近い河川で越流や堤防決壊によって多くの方が犠牲になられ、また数十年かけて築き上げた生活が一瞬にして破壊されるという大災害となりました。犠牲になられた方のご冥福と、被災された方の一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

 今までの防災観念では対応できない自然の猛威に、日本はさらされ続けています。莫大なお金も必要になりますが、専門家も交えて危険レベルの高いところから順次、防災対策に全力を挙げてほしいものです。

 今回、政府では国土交通大臣に公明党の赤羽一嘉さんが任命されました。赤羽さんは災害関連のスペシャリストといってもいい方です。兵庫選出で阪神淡路大震災ではご自宅も倒壊の被害にあわれ、その経験から被災者支援の法案作りにも関わられました。国会での質疑でも災害関連に多くの時間を割いておられます。赤羽一嘉HPこの職には最適任者の方だと思いますので、就任早々大変ですが、使命の道で是非とも頑張っていただきたいものです。



IMG_8317i2.jpg



 「祈り」ということについて、ある時期まで私は外にある御本尊にお願いするような拝み方をしていたように思います。「病気がよくなりますように」「生活がよくなりますように」と・・・ところがそれではどうも仏様任せの感がぬぐいきれない。それが自分の生命が仏であるということを学び、またこの身で感じるようになって、それから祈り方が変化してきました。

 それは他力ではなくすべてを自力で解決するという信仰観の変換点となりました。他力ではなく自力、人任せではなく自分だと・・・その自力が、「南無妙法蓮華経」であり、「自行化他」の信心です。自身の生命に元々ある御本尊を強く涌現すれば、乗り越えられない苦難はない、また祈りとして叶わないことはない・・・その決意と成就への強き一念が「祈り」であると理解するようになりました。

 そうしますと祈りが叶うか叶わないかはこちらの信心の問題であり、御本尊様のせいということは何もありません。それで私はすっきりとし、あとは目標を立てて自分が信心を頑張ればいいだけだと思うようになりました。

  「病気が治るように」「お金持ちになるように」と思うだけで、それをなし遂げるという決意・行動がなければ、それは祈りではなく「願い」ということです。そこから一歩前進して「広宣流布のために病魔に勝つのだ!」「この職場で勝利するのだ!」と決意をし、その一念を貫いて信仰に励むところに祈りが成就していく・・・それが信心する人の祈りではないでしょうか。

 「大地はささばはづるるとも虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのか(叶)なはぬ事はあるべからず」(祈祷抄1351p)

 この御文では法華経の行者の祈りはすべて叶うと御断言なされておられます。初心のころにこの御文を拝した時、申し訳ないことですが、「本当にどんな祈りも叶うものだろうか?」と思ったものです。それでもそのお言葉に嘘は絶対にないとすれば信じるしかありません。そして今になって「決意」「一念」の大切さを知り、また法華経の祈りが叶う道理が少しづつ分かるようになってきました。

 「必ずこうする、こうして見せるのだ」と決意した一念には、「必ずそうなる」という結果が伴います。それが「因果倶時」だと言えます。その意味で決意があるところ必ず結果がついてくる。ゆえに自分がどうしたいのか、どうなりたいのか心を明確に持つことが大事だと言えます。弓矢を放つときに的が曖昧では、いくらお題目をあげていても一体どこに向かっているのか、またどこに力を与えていいものやら、仏様もさぞかしお困りになると思うのです。

 ちょうど今月は「可延常業書」の御書講義がありました。(大白蓮華10月号)その中の指導で池田先生は次のように述べられています。
 生命には「生き抜く力」があります。「治す力」がある。それを引き出す最高の「大良薬」が妙法です。治すのは「自分自身」であり、治すと決めるのは自分の「信心」です。(60p)

 治すと決めるのも、また治すのも自分だと言われています。病を治すとまず決める、そして信心によって御本尊の功力を涌現して病を治す・・・すべては自分から始まり自分に帰結する。それが信心だと思います。

 「日本一の幸せ者になろう」「誰よりも仏法を語れる人になろう」と私も決意しています。どんな決意をするも自由です。仏様のお心に背いたり、道理から外れなければ大きな夢を持つのもいいと思います。「必ずあの人を救うのだ」「妙法を受持させるのだ」と、そう決めて前進です。

 功徳聚(功徳のかたまり)と言われる御本尊に迷いのない一念でぶつかり、ともに思うがままの大きな功徳を得ようではありませんか?自分の決意と信心でどんな祈りも叶うと信じれば、生きる道に安心丈夫の心が湧いてきます。大船に乗った心意気で堂々と、娑婆世界という濁世の舞台に立ち、祈りの実証で勝負していきたいものです。

 




Comment:0  Trackback:0
2019
10.07

自力の信心

Category: 未分類
 
 
 信心は自分に起こるすべての苦難に対し、自分自身が変革することで勝利していくことを教えています。世間では苦難を避けたり、まわりのせいにする考えも多いと思いますが、信心の世界はどこまでも自分自身に原因を求め、自分を変えることで環境世界を変えていくという、信仰者に自己変革の主体性を持たせる哲学だと言えます。

 その意味でどこまでも信心で自分を強くしていく・・・周りに甘えず自力で人生を切り開いていく・・・そんな人間を目指すものです。信心したての頃は「御本尊様に何とかしてほしい」という、どこか他力本願的な祈りであったりもしますが、信心に確信を持つことができれば、自分で一人立ち、自分の力で戦うのだというその一念で御本尊に向かっていくのではないでしょうか。「どんなことも自分で解決するのだ」・・・その心こそ人を頼らない丈夫の心だと思います。

 本来、御本尊というのは自分の生命のことなのですから当然と言えば当然です。しかし、自分の信心を振り返っても、どこかそういう他力本願的な甘ったれた考えがあったように思います。そんな時は「信心していれば何とかなるだろう」という、一種、逃避に似た無責任な考えに陥りやすいものです。ところが今は、「自分の信心でつかみ取るのだ、必ずこうして解決して見せるのだ」という、強い決意と確信で戦えるようになりました。


IMG_8298i.jpg



 少し話は変わりますが、聖教新聞には病気のお子さんを持つ人の体験が良く出てきます。そこでは多くの方が「この子に信心を教えられました」ということを語られています。そうなるまでには愚癡も出たり、また暗い心で悩まれたりもされたことでしょう。誰しも「どうして自分だけがこんな目にあうのだ」といった、まるで自分のせいではないような心が出るものです。それを自分が作った宿命だと真正面から捉え、御本尊に懺悔し、この信心で絶対に乗り越えていこうと決意した時、きっと何か変化が起こっていくのではないでしょうか?

 自分の周りの環境というのは、自身の生命が鏡に映しだされたものだと説かれます。自分の生命が歓喜と感謝の生命へと変革していけば、自分を取り巻く環境も歓喜と感謝の世界へと転じていきます。同じ環境であっても、穢土なのか、寂光土なのか、それは自分の生命の境涯で決まります。

 子供が病で苦しい・・・そのことでこの世は穢土だと思っていたのが、信心によって子供に感謝し歓喜の世界へと転じていった。それによって穢土が寂光土へと変わる。自分が変わることで宿命転換を果たしていくなら、「人間革命」」とはつくづく素晴らしい言葉だと思います。そして宿命転換のキーワード・・・それは「感謝」ということではないでしょうか。自分に与えられた苦難に感謝するとき、人間革命の光はいや増して輝いていくことでしょう。

 池田先生は「幸せだから感謝する」以上に「感謝するから幸せになる」と教えてくださっています。無慈悲で恩知らずな自分がどうすれば感謝の世界に入れるか・・・「南無妙法蓮華経」を唱え、学会活動に励み、生命を仏界に染めあげていくしかない、そうやって仏となれば歓喜と感謝に満ちた世界へと移り住める。それを信じていきたいものです。

 臨終の時まで信心を貫き通し、「一生成仏」を果たすなら、三世永遠に仏として生きていくと言われます。三世の幸福を思えば、今世の数十年の苦労など一睡の夢のようなものです。ゆめゆめ退転なきように、人を頼らない自力の信心で一人立ち、これからも精進していきたいものだと思います。




Comment:0  Trackback:0
back-to-top