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2019
11.24

籠の中の鳥

Category: 信心


 先日の夜、私は学会の会館警備の任務に就いておりました。その夜は特に大きな会合もなく、男女青年部がそれぞれ小会合を予定していただけでしたが、女子部のほうは珍しく部長2名だけで唱題会をするということでした。

 会館は地方にある比較的小さな会館です。しばらくすると警備室にいる私の耳にも女子部員の唱題する声が聞こえてきました。それは女子部らしく、山の谷川を清水が迸って走り落ちていくようなよどみのないリズミカルなお題目です。二人で警備についていましたが、相方の高齢の方も「私には早すぎるけどさすが女子部部長、ええ題目やなあ」と言っておられました。



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                     関西池田墓地公園の紅葉(11月10日)



 私は思わず目を閉じ、耳を澄まし、その音声に心をゆだねて聴きいりました。そしていつしか自然とその題目に合わせ心で唱えていました。するとやがて二人の題目の音声に、自分の仏性が呼ばれてしきりに体内から出ていことするような感覚に襲われたのです。「南無妙法蓮華経はすごい世界だよ。早くあなたも出てきなさいよ」とそんなふうに聞こえるのです。私はまるで籠の外の声に誘われ出ていこうとする鳥のようでありました。

 御聖訓には「譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し」(法華初心成仏抄557p)とあります。

 それと同じことが私の中で起こったかのようです。それはあまり経験したことのない不思議な感覚でした。女子部の唱題は一時間以上も続いたのですが、よどみなく題目をあげ切った二人に私は感動を覚えました。私の仏性を呼び出すために唱題してくださったようにも思えます。唱題を終えて玄関に出てきた二人に「あなたがたの題目がすごいからこっちの仏性が飛び出すかと思ったよ」と言いますと、二人は上気した顔で笑っていました。

 「南無妙法蓮華経という仏の生命はどの人の命にもある。あるから縁に触れて出るのだ。なければこのような感覚に襲われることもない」―そのことを如実に教えられた出来事でした。あれから3日ほどたちますが、まだ私の体内を彼女たちの題目が駆け巡っているようで、私も題目をもっとあげたいと思います。

 池田先生は「ひたぶるな題目」と言われます。法華経の兵法とは理屈ではなく、只々「ひたぶるな題目」を唱え抜くということではないでしょうか?それ以外の策は世間の兵法です。何かあるごとに題目、題目と御本尊に向かう人こそ真の信者だと思います。

 11月も後半に入り、朝晩も少しづつ寒くなってきました。間もなく厳しい寒さがやってきますね。信心する人は冬のごとし・・・厳寒の暗い冬の道を、御本尊という一筋の光明を信じ、負けじ魂を発揮しながら信心に励む・・・それが私がイメージする求道者の姿です。中には満ち足りて悠々自適の人もおられるでしょうが、耐えながら苦難の中を歩く人こそ私は人として魅力を感じます。本当の行者とは安易で楽な生活を夢見る人ではないはずです。

 日蓮大聖人様も大難の連続であられました。牧口先生、戸田先生も獄中生活・・・池田先生も世間から悪口の限りを言われ、信頼する同志に裏切られ、僭聖増上慢である坊主どもから赤誠のご供養を破壊され苛(いじ)め抜かれるという大難を歩み通されました。そしてあらゆる難に屈することなく完全勝利されたのが創価の師弟です。その師匠の生命こそ法華経に説かれる宝塔であり、あたかも大殿堂を仰ぎ見る思いがするのは私だけではないと思います。

  それらの師匠に比べれば、我々はまるで温室の中で信心しているようなものではありませんか。せめて与えられた小難に屈することなく信心を貫きたいものです。苦難の中に、またギブアップしない精神の中に仏という財宝があることを信じ、いよいよ題目一筋で前進していこうと決意しています。




                     

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2019
11.11

「化城即宝処」

Category: 信心


 今月は聖教啓蒙が活発に行われたこともあり、私の地区でもいつもの倍以上の配達となりました。普段は4、50分ほどの配達ですが、今月は新規の方も多く1時間半近くを要します。慣れないうちは配達漏れが出て「はて、どの家を忘れたか?」と配達表を見直すこともあります。

 今は広宣流布のお役に立つことが生きがいとなりましたので、部数が増えても苦にはなりません。むしろより多く広布の戦いに勤しめるのですからありがたい限りです。こうして生きて広布のために身を削る・・・それは糞を黄金に変えていただくようなもので、その労苦は願ってでも受けたいと思います。



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 今、私も「法華経の智慧」(聖教新聞社)に学んでいますが、(「法華経の智慧ノート」)合間を見て池田先生の指導に学ぶのは私にとっては楽しい時間です。御書を拝するのも池田先生の指導を拝しながらということが多いですが、最近は「そうだ、そうだ、その通りだ」と思いながら拝読することが多くなりました。

 「信行」だけでも人間革命はできるでしょうけど、「信行」が進めばおのずと「学」も欲するようになると思います。法華経は何を説こうとするのか・・・この世で信心を受けたもった意味とは・・・そして絶対的幸福とはどういうものなのか・・・と、様々な疑問が次々と湧き、戸田先生や池田先生の指導にその答えを発見しては、また力を得て前進する・・・その繰り返しです。

 ちょうど組織でも今「法華経の智慧」講義をやっています。私も月に一度ですが総県の会場へと一時間半かけて受講に行きます。自分で家で読むのもいいですが、人の講義を聞きますとまた新たな知見が得られます。目で読み、耳で聞き、一人で思索し、また同志とともに学ぶ・・・生来、怠け者ですが一歩でも1㎜でも機会をとらえて学びたいと思います。

 今回も「化城即宝処」についてのお話を聞き、改めて「なるほど、そうか」と納得することがありました。
 信心していますと「一生成仏」という明確なゴールがあったり、また「広宣流布」という「舎衛の三億」に説かれるような到達点があるという風につい思ってしまいます。「今日で広宣流布は完成しました。もう明日から折伏も選挙もやらなくていいですよ」とそんな時が来ればいいのですが、それではこちらの修行の場がなくなってしまいます。(笑)

 それではどう考えるのか・・・結論だけ言いますと、いつか、どこかに「一生成仏」や「広宣流布」のゴールがあるのではない、今、ここに「一生成仏」もあれば「仏国土」もあるというふうに捉えるのです。それが「九界即仏界」「化城即宝処」ということになります。学会でも現実の実証ということを大事に考えますが、今この場所で勝利して幸福になることを目指します。どこまでも今いる場所が宝処であり、悩み深き自分が仏だと教えているのです。皆さんはそう信じておられますか?たとえ身が地獄にある時も、そう堅く信じて前進することだと思います。

 九界と仏界が別物だったり、化城と宝処が別々なら、一体、仏界や宝処はどこにあるというのでしょうか?それでは死んで極楽浄土にいくような話で、凡夫には死ぬまでわかりません。私の先輩も「いつか竜門の滝を昇って仏になるのではない。今、仏となって滝を昇ればいいのだ」とおっしゃいました。その意味が今ならよくわかります。

 日蓮大聖人のお言葉も、法華経の法理にしても、決して御書や仏典の中だけのことではない。長者窮子や衣裏珠の譬えにしても決して他人事ではありません。それらはすべて自分のことを説いているのであり、自分の生命の話なのです。その意味で「我が身一人の日記文書」(御書563p)と拝するべきだと思います。そう信じていくならば、自分の生命をより深く掘り下げていくことができます。

 「教学は信心を深める。また、信心が進んでくれば、どうしても教学を要求する、その教学はかならず信心を深め、その信心は功徳を涌現していく」(池田先生)

 まさに師匠の言葉通りですね。今日よりはさらに道を求め、「行学の二道」に励んでいきたいと思います。

 

※「化城宝処の譬え」については、「法華経の智慧」(単行本第二巻)の中で斎藤さんが解説されていますので転載いたします。その前後に池田先生の大事な指導がありますので、本書の拝読をお勧めします。

斎藤:譬喩の題材になっているのは砂漠を旅する隊商の一行です。宝のある場所(宝処)を目指して五百由旬もの険しい遠路を、一人の導師に導かれた隊商が行きます。しかし、途中で人々は疲労の極に達し、もうこれ以上進むことはできない、と導師に言います。ここで引き返しては、これまでの苦労が無駄になってしまいます。すばらしい宝を捨てて、なぜ帰ろうなどというのか、と人々を憐れんだ導師は、三百由旬を過ぎたところに神通力によって一つの城(都市)を作り、あの城に入れば安穏になれると励まします。この言葉を聞いて歓喜した人々は進んでその城に入り、疲れ切っていた体を休めました。人々が休息を十分にとったことを確認した導師は、その城をたちまちに消し去り、あの城は、あなたがたを休息させるために私が作った幻の城に過ぎない、真の目標である宝処は近い、と説くのです。




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