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2020
05.28

「冥益」の功徳を楽しみに

Category: 信心


 全国的にも「緊急事態宣言」が解除され、ウイルス問題も一山超えたかのようですが、第二派も予想される中、油断は禁物ですね。まだまだ自粛の心も持ちながらあ安全に留意して生活したいと思います。

 そんなコロナ問題の最中、私も題目をあげていて生命がまた一歩、変革していく功徳を感じています。そしてそれが家庭や仕事に現証となって現れてきました。



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                       <今年も無事に田植えが終わりました>



 プライベートなことで詳しくは書きませんが、家庭内が以前に比べ円満になってきました。なってきたということは以前はそうでなかったわけで、夫婦や嫁姑、親子関係など、時には口喧嘩やギクシャクすることも良くあったのです。

 それが変わってきた一つの理由として、私が家内を立派だと思い、感謝できるようになったことがあります。家庭は一番身近で気を使わない人間関係なので、感謝というようなことは普段あまり感じない、ご飯作るのも洗濯するのも当たり前のことです。それが家事から仕事からよくやってくれていることに、心からありがたいと思う気持ちが出てきたのです。それが相手に通じるのか自然と会話も増え、相手も私に対しとげとげしさが無くなってきたように思います。

 嫁姑ということも、家内がよく私の母の面倒を見てくれるようになりました。普段は「私、お母さんのこと好きになれんわ」と距離を置いていましたが、先日、母が転倒してから、お風呂やトイレ、食事などあれこれよく世話をしてくれます。「よくやってくれるので感謝してる」と言いますと、「家族やから弱った時はみんなで助けるのは当たり前や」と言います。そんな言葉を聞きますと、家内もすごく変わってきたんだと思います。

 また下の娘がコロナで休校中ということもあり、夜は親子3人で勤行をするようになりました。「ほかのクラスの子は学会なんかしてないのに、どうして私だけ拝まんとあかんの?」とよく文句を言ってましたので無理にはさせませんでしたが、ここにきて素直に勤行するのです。娘の信心はずっと祈ってきたことでもありますので、まだお付き合い程度ですが少しは道が開けた思いです。

 さらに仕事の面でも新しい仕事の話が進んでおり、今年中に受けるかどうか答えを出すことになっています。厳しい仕事ではありますが、受ければ地域にも貢献できるいい仕事です。

 そういういくつかの現証を見ていますと、根本は私自身の生命が変革したことから、環境が変わってきたことを実感します。周りの環境が変わるから幸せではなく、自分が変わることによって幸せが湧現(ゆげん)してくることを感じるのです。

 家庭や職場において愚癡や不満がたくさんあるのが凡夫の現実です。しかし、それから逃げたり、相手を責めたりするのではなく、自分が変わることによって環境を変えていく。要領ではなく地道に信心しながら悩みを乗り越え、境涯を開いていくのが正道だと思います。


 信心は変わること、「人間革命」すること、幸福になることが目的であり、お題目はそのための手段です。現実生活の中で新しい自分の眼が開くこと、「何か変わってきたな」と新しい発見があること・・・そういった変革の現証を知り確信をつかんでいく人は、悩みがあっても決して行き詰まることはないに違いありません。

 「冥益」(みょうやく)と説かれる信心の功徳は、「顕益」(けんやく)と違い、パッと魔法のように現れはしません。日々の精進においても薄紙をはぐように、木々の成長が目に見えぬとも、10年、20年たてばその成長を見るように、じわりじわりと年月をかけて変革していくものです。

 たとえ苦難の道に遭遇しても、そうした冥益の功徳を楽しみに、粘り強く最後の人間勝利を目指して朗らかに今日も歩いていきたいと思います。





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2020
05.19

光は闇に用なり

Category: 未分類

 世の中全体がまだまだ暗い状況にありますが、必ずいい方向に向かうことを確信しつつ、一歩一歩着実に前進していきたいものです。

 私自身は楽観主義ですので、今の状況にあっても未来に対しても明るい世界を描いて生きています。なぜなら私には妙法があります。これさえあれば万事大丈夫だと信じているからです。

 本当の正しい宗教、哲学というものは、どんな時代状況にあったとしても、また絶望的な局面を迎えても、悩める人に希望を与え続けるものでなければならないと思います。

 環境と個人とは、「依正不二」の原理にある通り、密接不可分なわけですが、だからと言って時代が暗いと自分まで暗くなるのではやり切れません。その暗い状況を打破するために自分自身が明るく輝いていく、また生命力と智慧を発揮して困難な状況に負けないで環境をも変えていく・・・そうありたいものです。



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 その意味で日蓮仏法の灯り(あかり)は闇の中でこそ輝くものです。昼間の晴天の下でライトをつけても何の役にも立ちませんが、人が迷う暗闇の中では灯りほどありがたいものはありません。闇のような逆境の時こそ輝いて世界を照らす・・・その灯りを持っているのが学会員です。信心が強ければ煌々と輝き、弱ければ江戸時代の行燈(あんどん)のようなものかもしれません。中にはパットついてすぐ消える線香花火のような人だったり(笑)・・・それではいけません。

 唐突ですが、皆さんは悩みはお好きでしょうか?たいていの人は嫌いなことと思います。できるだけ悩まないで楽しいことがたくさんある暮らしをしたい、好き好(この)んで悩みや労苦の中に飛び込む人はいないかもしれません。

 ところがこの信心は悩みがないと幸福になれないとなっています。「煩悩即菩提」ですので悩みが悟りに転じ、大悪が大善に変わり、毒が変じて薬となります。まさに「変革」「転換」の宗教です。そして救いようのないひどい人間がまっとうで立派な幸福者になるのが「人間革命」です。その意味で私など誰よりも変革の条件を備えていると自負しています。最初はひどくていいのです。

 「願兼於業」といって、そのままで幸福なのに、あえて重い悪業を背負ってまで生まれるというのですから、これは本物ではありませんか。念仏などは、鼻から逃げることばかりを考えているのですから、所詮法力が違うというものです。

 だから信心するなら大いに悩めばいい。悩みには自分でもわからない深い意味があります。私も「どうして自分はこんなにうまくいかないのだ?いつまで苦しめばいいのだ?」と、長い間、悩み続ける日々を暮らしてきました。その業を恨めしく思ったものですが、ある時からは「これは案外、すごいことになるかもしれないぞ」「最高に幸福になるために大いに悩むようにできているのだ」と思えるようになりました。そこから悩みを楽しむ楽観主義の世界が開けたのです。

 信心があって悩みが深い人は、その意味で幸福になる条件を備えている人だと私は思います。だから悩み多き人に言いたい。「あなたこそ仏様から選ばれて成仏を約束された人です。うつむかないで胸を張ってください!」と。

 「あえて悩みの姿で生まれて「人間革命」して見せるのです。劇です。ドラマみたいなものです。」(青春対話第2巻)と池田先生は言われています。

 20年30年不幸を演じ、最後は大逆転で誰よりも幸福になるどんでん返しのドラマです。ですからすべてを御本尊様にお任せして、悩みに振り回されず、水の流れる如くに信心に励んでいけばいい。「最後は信心しきった者が勝つ!」と言われているのですから、その言葉を信じて「矢でも鉄砲でもかかってこい」との心境でやり切ってみようではありませんか!





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2020
05.07

逆境こそ私の本舞台

Category: 信心



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 5月の連休もコロナウイルスによる自粛の状態が続きましたが、今しばらくは自重しながらの生活ということになります。私の住まいは田畑が広がる田舎ですので、感染のリスクは都会ほどではありませんが、やはり用心するに越したことはありません。
 
  実は私の地区には信心に対していつも否定的な考えの同志の方がおられます。残念というほかありませんが、そういう人を訪問した時、もっと前向きに希望ある言葉がその人の口から出ないものかと、こちらの気持ちも悲しくなります。信心の心がある人、その心が出ない人・・・そこには何とも大きな開きがあるように思えて仕方ありません。

 信心があるというのはどういうことか・・・結論として、善きにつけ悪しきにつけ、何があろうとさらに御本尊へと強く向かっていく人のことではないかと私は思います。

 いいことがあれば感謝できます。つらいことがあれば御本尊にしがみつく思いでぶつかっていけます。ありのままで幼子が親に抱きつくがごとく、見栄も格好も関係ない、正直に自分をさらけ出してぶつかっていく・・・その人を仏様が見捨てようはずがない。またそれが凡夫の正直な信心の姿ではないかと思うのです。

 今回のコロナウイルスのために商売がやっていけなくなり店をたたむ人もあるかもしれません。そしてそれに不信を抱いて信心から遠ざかる人もいるかもしれない。逆に今こそ「変毒為薬」、「人間革命」のチャンスと捉え、さらに強く御本尊に向かっていく人もいると思います。当然、後者の人こそが「信心のある人」だと言えます。

 まさに試練の時こそその人が篩(ふるい)にかけられる時であります。その時に迷うことなく、学会活動に打って出る、ひたぶるな唱題に励んでいく・・・そうすれば難を乗り越えるだけでなく、最後は「一生成仏」の仏果を得ることができます。四条金吾殿しかり、池上兄弟しかり、死んであの世に旅立つ時に「大聖人様、あの苦しい時に私は一歩も引かずに御本尊を信じ抜きましたよ」そう晴れやかに言えるようにしておきたいものです。

 いい家に住んで贅沢な暮らしをして、人並み以上に楽しみを得て、それが功徳・幸福だというのはあまりにも浅薄な考えです。それが目的というなら信心をしないでも世間にそういう人はたくさんおられるでしょう。信心の本当の功徳は「発迹顕本」であり「一生成仏」であり、それだけはお金を積んでも買えない・・・天皇陛下でも総理大臣でも日本一の金持ちの人でも手に入れることはできないものです。

 その意味で信心強盛な学会員はどの人よりも尊貴でありがたき人です。我々もその栄誉ある仏の軍団との自覚とプライドを持って生きていきたいものです。

 ちょうど昨日、拝読しました「四信五品抄」には次のようにしたためられています。

「問う汝(なんじ)が弟子一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何(いかん)、答う此(こ)の人は但(ただ)四味三教(しみさんきょう)の極位(ごくい)並びに爾前(にぜん)の円人(えんじん)に超過するのみに非(あら)ず将(は)た又真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(げん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり、請(こ)う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿(なか)れ進んで過去を尋(たず)ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒(あにきれんいちごう)の者に非(あら)ずや退(しりぞ)いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可(べ)し天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如(ごと)し蔑如(べつじょ)すること勿れ蔑如(べつじょ)すること勿(なか)れ」


 たとえ外に見える姿は貧しき身なりとも、その内証は仏なのです。人が嘲笑(あざわら)おうとも、自分で自分を卑下することなど決してあってはなりません。いついかなる時も胸を張って、「私は仏なのだ、大長者なのだ」と心得ていくべきです。功徳があまり感じられないという人を見ていますと、自分を低くしたり自分はだめだと思っている人が案外、多いものです。自分は素晴らしいと思って讃嘆していくことはいい意味で「法華の慢」に通じます。

 人は一番苦しい時に本当の信心があるかどうか試されます。また苦しい時に本当の信心が出ます。試練を善き友として信心だけは一歩も引かないように、「逆境こそ私の本舞台」と胸を張り、前進していきたいと思います。







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