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2020
07.29

運命の人との出会い

Category: 徒然の記


 コロナがいつまでもこの国を苦しめています。安倍さんにも小池都知事の声にもどこか覇気が感じられない。政治は人々を勇気づける声を持たねばならない、しっかりとリーダーシップを発揮してもらいたいものです。

 今日は少し私の思い出話をします。

 私は信心して間もなく、というよりすぐにといっていいかもしれません..信心の本当の功徳とは「一生成仏」であることを知りました。
20代後半の入会ですが、その頃はお金も欲しければいい仕事にもつきたい、できれば結婚して家庭も持ちたいと、人並みにそんなことは思っていたと思います。しかし、心の底では、何か生きる上での確かなもの、自信をもってこれだと言えるもの・・・今なら哲学というのかもしれませんが、力強い何かを求めてもがいていたのも事実です。




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 そんな時に、友人が先に入会し、私は彼から折伏を受けました。そしてその彼の案内で私の一生を決定づけるある初老の方との衝撃的な出会いに遭遇したのです。もうかれこれ40年近くも前のお話です。

 ある夜、その友人の誘いで、八王子だったか福生だったか、学生のアパートのようなところに連れていかれました。部屋にはその方と数人の学生らしき青年が談笑していたように思います。その部屋の隅のソファにその方は座っておられました。

 たぶん紹介されたと思うのですが、私はその人と目が合った瞬間、まるで電流でも走るような不思議な感覚に襲われました。とにかく熱いというか、輝いているというか、その方から出ているオーラが半端ではなかったのです。

 私はその生命力というか存在感に圧倒され、「まるで頭から湯気が立ち昇っている」「この人はとんでもない何かを知っている」とそれこそこちらの心臓がバクバクいうぐらいの衝撃を受けました。と、同時に不思議にある懐かしさ、温かさをも感じたのでした。一言二言、何かを聞かれたように思いますが、圧倒されて何を話したか今では覚えていません。

 まあ、人との出会いでこれほど驚いたことはありません。その方は私の顔をまじまじご覧になったのですが、私はその眼光の鋭さに目を合わせることができませんでした。自分の善悪すべてを見通されていると感じて震えたのは、後にも先にもあれが最初で最後です。

 それから数年にわたり、その方がお亡くなりになるまでお付き合いがあったのですが、組織とは別に学生のアパートで、その方を囲んで週末には集まるというふうでした。その時のお話は長くなりますので書きませんが、とにかくその方と出会わなければ、今の私はなかったと思います。もちろんここまで信心を続けていたかもわかりません。

そういう意味ではこの人生で誰と出会うか・・・それは大きな大きな意味を持っているものです。

「題目を良く上げるんだな」
「池田先生についていきな」
「あんたが自分に勝つならすごいことになるよ」等々・・・口数は少ない人でしたが、一言一言に重みがありました。

 そしてここぞという時に生命に楔を打ってもらいました。たくさんの言葉が私の生命に刺さって、今なお信心が危ない時に詠みがえってきます。そして不思議なことにその時言われたことが、「このことだったのか」「あの時、言われた通りだわ」と空恐ろしいぐらいに当たっているのです。

 私自身はその方が生きながらに「一生成仏」を果たされていたことを確信しています。入会は40代後半と遅かったとお聞きしましたが、毎日、3時間のお題目を数年、個人折伏も100世帯を超えておられました。「15年もやって確信がつかめないようじゃ駄目だ」とも言われていました。

 その方のおかげで私は自分が仏だということを深く信じてやってくることができました。またその人に会えたことが初心の功徳でしたし、振り返れば今までで一番大きな功徳だったと思います。なぜならそのおかげで、さまよえる子羊同然の私が、広宣流布と一生成仏の世界に生きるようになれたのですから。

 今、私も溌剌と歓喜の生命で生きる身となり、この道を進めばすべて大丈夫という確信で生きることができます。その意味でその方への感謝の思いが尽きることはありません。

 その方が旅立たれてもう30数年たつのですが、毎日お顔を思い出さない日はありません。この方とは来世もきっとお会いすることになるでしょう。それほど私にとって縁の強い人だと思います。今度はちゃんと目を合わせられるように、こちらも負けない仏の眼光を備える身となって「お久しぶりです。前世ではお世話になりました。その後、お元気でしたか?」と笑って声をおかけしたいと思います。





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2020
07.10

相対的幸福と絶対的幸福

Category: 信心
 


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 このたびの九州を中心とした全国的な大雨では、甚大な被害が出るとともに、多くの方が犠牲になられました。お亡くなりになられた方に対し、心からご冥福をお祈り申し上げます。また被災された方々においては、行政の方でも最大限の援助をしていただき、復興への道を作ってあげてほしいものです。

 疫病や災害など、まさに仏法で示された通りの末法の姿が現出しています。これからも人類は災害と向き合って暮らさねばならない・・・政治の取り組みはもちろんですが、信心している私たちは今一度、日蓮大聖人の立正安国論に学び、正を立て国を安んずることを案じなければならないと思います。

 その意味で妙法を信じる「異体同心」の人々の存在意義はますます大きいものと思います。国家、世界の安穏も創価学会の発展と妙法による祈りにあると私は確信しています。諸天が歓喜し、悪鬼が退散するような国土に変えていかねばならない。日々の御祈念でより一層、災害の起こらないことをしっかりと祈りたいと思います。

 少し前から池田先生の「諸法実相抄講義」を研鑽しています。その中に興味深いお話が出ていました。それは相対的幸福と絶対的幸福の関係についてのお話で、大聖人様の佐渡御流罪の法難を通して次のように講義されています。

 「「流人なれども」――いま、大聖人の御立場は、流人という、まことに厳しくつらいものである。これは、相対的次元の幸、不幸の現証です。その次元では、この世でもっとも不安定な、不幸な姿であられる。しかし、内心の胸中に確立された境界――絶対的幸福の次元では、この世で誰よりも豊かで、広大かつ不動の幸福を満喫されているのであります。」

 「絶対的幸福とは、相対的幸福の延長線上にあるものではない、ということです。これを、もう少しわかりやすくいいますと、経済的に豊かになり、健康で、周りの人からも大事にされ・・・等々の、一切の幸福の条件が満足しているのが、絶対的幸福ではないということです。」

 「相対的にはいくら不幸であっても、絶対的幸福を確立することはありうる。逆に、相対的幸福の条件は、どんなにととのっていても、絶対的幸福に程遠い人も少なくありません。(中略)相対的には不幸でも、絶対的幸福を確立した例が、いまここで述べられている大聖人の境界なのです。」


 これを読んで私はその通りだと思いました。人と比べて幸せだ不幸だというのはそれは相対的次元です。それと仏法が教える絶対的幸福は違うものです。宿業が重く、また願兼於業から世間的には不幸な姿に見えても、信心によって胸中に絶対的幸福を確立することはできる。絶対的幸福とは自身が仏であると悟ることであります。それを悟った人が、相対的次元でもやがて勝利の人生となり栄えゆくことは、御書にも示され、また多くの学会員の方々が証明しているところです。

 池田先生は「自分の定めた目的観、使命感が、宇宙とともに不変常住の法に合致していることが、絶対的幸福の完璧な要件である」と述べられています。生きる目的が不変常住の法・・・すなわち妙法に合致していることが条件であり、妙法と一体となって信心根本に生き抜く時、生命は充実し、大歓喜にあふれたものになることは間違いないと確信します。

 あの牧口先生、戸田先生のご法難を思う時、お二人が相対的幸福を求めての信心であれば、要領よく振る舞い投獄を避けられたことでしょう。しかし、仏法の本当の究極の信念に殉じて生きる道を選ばれた・・・そこに人としての崇高さ、偉大さがあり、人類に先駆けて絶対的幸福に生きる道を示されたものと思います。

 その巌のような信念、そしてそれを受けて死身弘法の戦いで世界広布を成し遂げられた池田先生があって、今の私たち学会員の信心の道は開かれたといっていい。まさに偉大なのは先駆者であり、その「事」の功績に対し自分は何の労苦もなく、後から「理」だけで批判をする人に、一体どれだけの値打ちがあるのか・・・膝を屈し、頭を垂れて、死身弘法の人に教えを乞うべきだと思います。

 私も拙い信心ですが、未来が明るく開けゆく思いで、歓喜で広宣流布に生きることができるようになりました。信心する今、私の生命には未来に絶対的幸福の大樹と育ちゆく苗木が根付いたものと確信しています。今後、その木を金剛不壊の大樹として育てるためにも、信心の実戦を貫いていかねばと決意しています。

 誰しもやがて死と向き合わねばなりません。その時にはお金も贅沢な暮らしももっていくことはできない。それらをすべてはぎ取られた赤裸々な自分で裁かれるものです。

 その時のためにも、胸中に絶対的柱である妙法の生命を確立しておきたい。三世永遠の幸福を目指し、いよいよの心で信心に精進していきたいと思います。





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