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都の月を詠(なが)める日まで

 
 衆議院選も公示になり、昨日は党首討論で、山口代表の表情を頼もしく見ておりました。私も今回はポスターの掲示から支援の活動へと、電話と訪問を合わせて幅広く動いています。

 ここ数年、地域の役員や子供会、人権委員や子供の剣道クラブと、積極的に地域行事に参加していたこともあり、新しい友人を多く作ることもできました。「選挙の時だけ来るね」なんて言われないように、日ごろからの友好活動の大切さを感じます。

 子供会の会長を退いた今も「名誉会長」なんて呼ばれています。(笑)また仲良くなれば、仏縁を広げることもできますので、これから仏法対話にも入っていけるよう祈っていきたいと思います。


 よく入信したころ、信心は寺の鐘だと教えていただきました。「強くつけば大きく、弱くつけば小さく音が返ってくる。信心も同じだよ」と・・・

 しかしながら修行の枝は曲げられるものです。誰しも最初から最後まで強信で行くことはおそらくできません。新池御書には「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく」とあります。続いて「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」と退転を戒めておられます。

 「耳に痛いわあ」という方もおられると思います。私も都会で入信、勇んでやっていましたが、田舎に帰ってから10年ほどは組織からも遠ざかってしまいました。因習の深い田舎で、家に邪宗があったこともあり、信心を捨てることはありませんでしたが、思うに任せない状態が長く続きました。



IMG_8160_R_R.jpg
                        都の月ではありません、田舎の月ですが・・・

              「戦えば 三障四魔は 競えども 勝ちて都の 月をばながめん」  (ランさん)
                
              「何処(いずこ)にも 法は光りて 満月の 九識の都 求め征(ゆ)く日々」 (剣)




 強く鐘をつくように、一途に一生懸命、信心に励む人を御本尊様がほうっておかれるわけはありません。その人は必ず大長者、幸福者になるに違いありません。そうなれるよう、私も自分の心にいよいよこれからだと言い聞かせ、鞭を入れてやっていきたいと思います。

 私の地区にも地区部長までして、今は勤行もしなくなった同い年の友人がいます。たまに会うと、「もういつ死んでもいいんや」なんて笑っています。しかし、その瞳にはかつての輝きはない、表情から若さが消えています。鐘もつかなくなると「ぐうの音」も出なくなってしまうものだと、悲しく思います。

 結局、宝の山に入って、宝をつかみ損ねたと思います。彼の信心にはいつも「我見」が強くありました。「信心とはこんなものだ」という見下した思いと同時に、幹部批判も激しいものがありました。彼の口癖は「もう俺は学会を卒業した。これからは自分のやり方でやっていきたい」 そして結局、最後は生命力も枯れ尽きるところへきています。

 信心に卒業もゴールもないはずです。いかにいいところまで行ってもそれに満足すれば後は退転が待っています。「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」との有名な御文にあるとおりです。ありがたいことに年々、私は信心が強くなってきました。その分、月々日々に輝いていきます。(誰も言ってくれないので自分で言いますが・・・(笑))

 御本尊は我が生命と説かれます。その生命の御本尊を湧現させることが、人間革命であり、広宣流布です。仏界が我が身に起こってくれば、自然と仏法対話、折伏が弾みます。生活や顔色にも色艶が増してきます。折伏したくてしょうがない・・・拝みたくてしょうがない・・・そうなったら、鐘をゴーンとついているようなものですね。その道に徹しゆく人は、もはや仏になる軌道を行く人だと思います。

  信心の姿勢は、如是相、如是性、如是体…とすべて鏡のように生活に顕われます。「どうせやるなら渋々ではなく、潔くやろう」それはいつも自分に言い聞かせています。「会合に出る」 「題目をあげる」 「仏法対話に行く」その活動をもの憂く思う時は要注意です。(いつもそうですなんて誰でしょう?) 「そんな心で動いても功徳は少ない・・嫌々の心に返ってくるのは嫌々の功徳だよ」と自分に言っています。(笑)。

 心に大きな夢を描いて、それに向かってはつらつと生きていける・・・それこそ今、私がいただいているありがたい功徳です。学会と共に先生と共に、生きている間に100世帯の折伏を目指して、今日も仏縁を広げながら、朗らかに御本尊一筋の道を歩いていきたいと思います。



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Comment

No title
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王者の剣さん、こんばんは☆✨
田舎の月も素敵(´▽`*)✨月天子にいやされますね✨
では一首
     「戦えば 三障四魔は 競えども 勝ちて都の 月をばながめん」
2014年12月03日(Wed) 18:15
Re: No title
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ランさんへ

いつもありがとうございます。信心の方程式のような素晴らしい歌ですね。私も喜んで法戦を戦っています。魔が競っても負けない心で・・・先日はちらほらと雪が舞いました。私も首から肩にかけて、この季節、痛みが出ています。魔と宿命を乗り越えて、共々に勝利に向かって行きましょう! 「何処(いずこ)にも 法は光りて 満月の 九識の都 住むは我らと」(笑)  
2014年12月04日(Thu) 00:51
あの鐘を 鳴らすのは あなぁたー♪
編集
>信心は寺の鐘だと教えていただきました。
>「強くつけば大きく、弱くつけば小さく音が返ってくる。
>信心も同じだよ」と

これ、いい譬えですね。
聞いたことは・・・たぶん、なかったですね。
使わせてもらおっと♪

大聖人も
『叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』
(日厳尼御前御返事)
とされた上で、種々の譬喩を用いられていますよね。

『法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ
 鬼に・かなぼうたるべし』(経王殿御返事)

『但し信心のよはきものをば法華経を持つ女人なれども・
 すつると・みえて候
 大将軍よはければ・したがうものも・かひなし、
 弓よはければ絃ゆるし・風ゆるければ波ちゐさきは
 自然の道理なり』(四条金吾殿女房御返事)

『此れ偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり』
(四条金吾殿御返事)

『各各の御信心のあつくうすきにて候べし』
(南条殿御返事)

いやあ、またひとつ勉強させて頂きました。

ちなみに私も、男子部時代に1年半ほど熟睡したことが
あります。
はっきりとした罰の現象と、地域同志の皆様の「諦めない」
姿勢に、組織活動に戻った経験があります。
2014年12月04日(Thu) 10:26
Re: あの鐘を 鳴らすのは あなぁたー♪
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福島の壮年様

> 大聖人も
> 『叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず』
> (日厳尼御前御返事)
> とされた上で、種々の譬喩を用いられていますよね。


 どの人も平等に信心できるようにできています。心得違い、ボタンのかけ違いをするのは本人です。それで幹部や組織を批判したり、人のせいにしてやめていく・・・退転する人は必ず誰かのせいにします。自分が悪いとは言いませんね。そこからへんからもうおかしい(笑)


> 『法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ
>  鬼に・かなぼうたるべし』(経王殿御返事)

 結局、信心の清らかな一念が大事ということでしょうか?潔く健気に精進していきたいものです。そういう人にはまた魔性の攻めも強いものです。その時こそ、「鬼にかなぼう」の法華経の剣をスパッと抜いて、「元本の無明」を叩き切らねばなりません。

 たくさんの御書のご教示、ありがとうございました。


2014年12月04日(Thu) 11:29
No title
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王者の剣さん、きれいなお写真に拙い和歌を添えてくださってありがとうございます(●^o^●)
不思議なんですよ、この和歌を書き込んで決意した瞬間、本当に三障四魔が激しく競いおこってきました( ゚Д゚)猛然と題目をあげて魔を蹴散らし今日も
悔いのない一日をおくることができました✨

「いずこにも 法は光りて」
そうなんですよね、満月は平等に人を照らします。「あの人は嫌いだから」といって差別したりしませんものね(笑)
2014年12月04日(Thu) 17:02
Re: No title
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ランさんへ

満月は「円満の法」の象徴のようですね。日蓮仏法は「太陽の仏法」ですが、月には太陽にはない、神秘的な力があるように思います。「自分はどこからやってきて、どこに行くのだろう?」そんな哲学的なことを考えさせてくれるのも、月や星の働きですね。

都の月も田舎の月も月は一つ、太陽も一つ、仏法の真実も一つです。そして正しい師匠も一人、先生あるのみです。

魔に動じずに、力強い信心で前進されますように・・・
2014年12月04日(Thu) 18:13
たたかい続けるのが仏
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> 私の地区にも地区部長までして、今は勤行もしなくなった同い年の友人がいます。たまに会うと、「もういつ死んでもいいんや」なんて笑っています。しかし、その瞳にはかつての輝きはない、表情から若さが消えています。鐘もつかなくなると「ぐうの音」も出なくなってしまうものだと、悲しく思います。

 結局、宝の山に入って、宝をつかみ損ねたと思います。彼の信心にはいつも「我見」が強くありました。「信心とはこんなものだ」という見下した思いと同時に、幹部批判も激しいものがありました。彼の口癖は「もう俺は学会を卒業した。これからは自分のやり方でやっていきたい」 そして結局、最後は生命力も枯れ尽きるところへきています。

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2世や3世はともかくとして、自身で入会した者は最初は自分の悩みが
きっかけでしょうが、広宣流布もっと明確に言えば人類の宿命転換
この目的観がないと、悪縁に触れ、潰れていってしまうわけですよね。
御書、先生の著作、そして
先生と世界の識者の対談から学ぶことは、この人類の宿命転換という目的観を不動のものにしますね。
この元地区部長ほどではないですが、人生の晩年になり
寂しい思いをしている雰囲気の方は結構いますが(若い時はラインの役職で動き回り)
「たたかい続けるのが仏」との先生の指導を
やはり、捉えきれていないと残念に感じる場面もありますが
機会を捉えては、その先生の「たたかい続けるのが仏」との指導を
かみくだいて語ります。
そうすると、嬉しそうです。
ああ、そうだったのかと、
2014年12月05日(Fri) 22:50
Re: たたかい続けるのが仏
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大河さんへ

コメントありがとうございます。家庭訪問、がんばっておられますね。「人類の宿命転換」という壮大な目的でなくても、自身の一生成仏という目的で十分信心はやっていけると思うのですが、どうして多くの方の信心の火が消えてしまうのか、これは大事な問題です。

環境(年齢、生活、住むところ、役職、仕事、悩みなど)によって信心が変わるということは、まだほんとうの信心がないということになると思います。どこに行こうとそこを寂光土にしてみせる、何においても信心が根本であるというのが、仏法者の生き方であり、それは年には関係ないというか、その年代なりのやり方で戦っていけるものだと思います。

90歳になっても、毎日お題目をあげ、仏法対話、座談会が大好きだというおばあちゃんもおられます。その人たちは結局、信心の楽しさ、素晴らしさをわかっておられる・・・誰が見ていなくても師弟の絆で、コツコツ信心をやっていける方ではないかと思います。死ぬ間際までそういう信心ができるように、それが臨終の時に仏国土へと行けるかどうかの鍵にもなると思います。

生きている限り、体がいうことをきく限り、戦い続けていきたいですね。戸田先生のあの最後のように、「追撃の手を緩めるな」との獅子吼、それに連なる一人の弟子として、師弟の道に生きぬいていきたいと思います。


2014年12月06日(Sat) 00:09












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