広布の大河に君ありて tori

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信じるということ

 


 各地で桜の花も満開の時を迎え、戸田先生の祥月命日を荘厳できたことをうれしく思います。私も一学会員として、戸田先生、池田先生の開かれた広布の道に立って、力いっぱい、地域広布に頑張る覚悟です。


 実は私には信心してない姉がおり、先日も会うことがあり、話が信心のことに及びました。その姉に言わせると、「どうして創価学会や池田大作を信じることができるのか?そこからわからない・・・」といいます。
 信仰というものが、理性では割り切れない行為であるというのは、ある意味、真理なのかもしれません。

 これは私の想像ですが、今後、どんなに科学が発達しても、また頭のいい人であっても、南無妙法蓮華経が仏であり、我らの生命であるということはわからないのではと思います。理論として宇宙の無始無終などはわかるかもしれませんが、南無妙法蓮華経とは何か?その実体はわからないと思います。

 その理由は、妙法が信じ抜くことでしか体得できないからにほかなりません。
逆に「わからないから信じない」という不信が根本にある人には、「信じていけばわかる」という生き方が、時として受け入れがたいものであるということも理解できないことではありません。

 仏様だけが御存じのその悟りの世界に入るには、わからないなりにどこまでも信じてぶつかっって行くしかないわけですが、それは凡夫にとって勇気と精神力がいることです。それには信ずることを阻止しようとする、魔との戦いを常に覚悟しなければならず、それと同時にわからない世界を信じて実践するという、一種、賭けにも近い信力、行力が要求されます。

 その上で純真な心でひたすら最後まで信じて行じていく人だけが、やがて仏の世界に入れる。智慧第一と言われた舎利弗も、最後は信によって成仏できたと言われます。




プール桜_R




 わかったら信じるという人は、それではわからない部分は信じていないということになります。広大無辺とも甚深無量ともいわれる仏法の世界は、凡夫にとっては考えも及ばない、ほとんどわからない世界ですね。(笑)

 頭のいい人は、かえってその辺のところで信仰が停滞するのかもしれません。自分の智慧が頼りで生きている人は、御本尊の智慧を信じていくより、御本尊さえも自分の智慧でこういうものだと理解できるものに変えたがる傾向があるように思えます。その考え方ではやはり信心はおかしくなります。その姿勢は御本尊中心ではなく、自分が中心であって、いつまでも我見を本尊としていくからです。その奥底にはやはり不信とか慢心といった生命が災いしているように思います。


 宇宙についてわかったことだけ信じるのであれば、人類は宇宙のことをどれぐらいわかっているでしょうか?宇宙の全体の髪の毛一本にも満たないかも知れない。それで宇宙はこういうものだと決めつけたところで、それは井の中の蛙が大海を語るに等しいことになります。

 御本尊様をこういうものだとか、池田先生をこうだとか、私にはそういう発想はできません。「仏意仏勅」の人ともいうべき先生をいいとか悪いとか思うのは、私には恐れ多いことです。
 御本尊様はもちろん、池田先生も私にとっては只々信じていく人であり、共戦と共生を誓願する人です。信心すればするほど師弟の縁も強まるのですから、これも私にとっては仏法に適(かな)ったことだと理解できています。

 信じ方は人それぞれだと思いますが、理によって信を高めることはあっても、根本的には信心は本能的なものかもしれません。ああでこうで、この信心は正しいから信じるというだけではない・・・正直、正しいかどうか本当のところはわからない(笑)・・・それでも本能的に命が信心に向かっていく、妙法の世界に入りたいと身体が絶えず請い願うものです。

 それは過去の宿縁なのか、我が身の不幸のせいか、はたまた生命は必然的に幸福の軌道を志向するものか・・・いずれにしてもそういう生命に生まれついたので、信心をしているとしかいえません。戸田先生は獄中で妙法を悟られ、「天命を知る」といわれたそうですが、私も天命とまではいかぬとも、我が誉れの運命として妙法を受け入れていくことは、きっと仏様のお心に適うものと確信します。

 「理屈では説明がつかないから、信心も世の中も面白いのだ」と、そういう結論になるわけですが、言葉も心も及ばない妙法だからこそ、私のような愚かな者も歓喜に包まれるのだと、御本尊様の御慈悲に感謝している次第です。



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Comment

「わからないから信じない」者のたわごと
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王者の剣さん こんにちは

「わからないから信じない」と「信じていけばわかる」は対偶の関係ではありませんか

「兵庫県でないから神戸市ではない」(真)ならば「神戸市ならば兵庫県である」も(真)
「パリーグでないから阪神ではない」(偽)ならば「阪神ならばパリーグである」も(偽)

「わからないから信じない」という命題を否とするのなら「信じていけばわかる」という生き方も否じゃないでしょうか
逆に、「信じていけばわかる」という生き方を肯定するのなら「わからないから信じない」という不信も肯定して欲しいです


「わからない世界を信じて実践するという、一種、賭けにも近い信力、行力が要求されます。」

ほんとに賭けですね このような表現で大丈夫なんでしょうか
「宝くじは1等に当選する人が必ずいる」(真)「株で儲けてる人がいる」(おそらく真)を信じて宝くじや株にのめりこむのと、違いがわかりません


「御本尊様はもちろん、池田先生も私にとっては只々信じていく人であり、」
私が以前 池田SGI会長に否定的だったのは、わかってなかったからです
今は池田SGI会長のたぐい稀な行動において、思想において、ある程度わかったからファンになっています
逆にいえば、ある程度までしかわかってないのでファンでとどまっている、ともいえます
それでも、只々信じていく人、には違和感があります
私には、池田SGI会長をかえって矮小化してしまっている感が拭えません

そもそも仏法は演繹法ですよね
法なのですから、大前提が真であろうと仮定できるまで「わかっている」ことは必要条件じゃないのですか
「わかる」だけでは十分条件に成り得てないのは、舎利弗の例で納得しますが

「信じるということ」の主題から
「理屈では説明がつかないから、信心も世の中も面白いのだ」と、そういう結論までの
過程において、なんか盲信のすすめ、をされているような錯覚に陥りました

説明をつくして、つくして、しつくして、それでも最後には説明がつかない部分が残る、という論なら、まだ納得できるんですけどね
2015年04月05日(Sun) 14:24
Re: 「わからないから信じない」者のたわごと
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虎キチさんへ

コメントありがとうございます。決してたわごとではないですね?(笑)
むずかしいお話ですので、虎キチさんの思いを満足はさせられませんが、私なりの考え、信心ということでお許し願います。

「迷い」も「悟り」も、「不信」も「信」もその元は別々でなく、一つだと説かれています。「無明即法性」とあります。その意味で決して「わからないから信じない人」を否定するものではありませんし、単純に対極にあるものとは言えないと思います。どちらを出して行くかということですので、わからなくても不信ではなく、信力を奮い起こし法性をあらわしていこうということです。

私も入信した時、学会が正しいかどうか、わからなかった。わからなくても信じようという心がでました。そこに理屈はなかったです。かわいた砂が水を吸うように、理性ではなく、本能的に妙法を欲しました。賭けるという響きは悪いかもしれませんが、信心ですので生命を賭ける、人生を賭けてやるという意味になると思います。

今もまだ私は同じスタンスです。体験とか教学で「事と理」両面、信心の骨格がいくらか太くなったことは確かです。しかし、仏法の偉大さが我が身でまだ全然わからないから、もっと知りたい、つかみたい・・・そのためには不信を排してひたすら信じていきたいですし、信じきっていこうとする自分がいますね。あまり理で説明がいる方ではないので、その意味では盲信的に見えるかもしれません。(笑)

それでも熱原の三烈士の方など、どこまで信心をわかっておられたか?信心してまもなくあの大難に見舞われました。それで命がけの信力がでました。「無解有信」という言葉のままの信心ではなかったか・・・それを盲信ということもいえるかもしれませんが、そこには私の胸を打つ信心の真髄があるのは確かです。

いろいろと疑いを晴らしながら、理で足場を固めて、信じていくという考えでは、とても私など智慧も時間もありませんし、歴劫修行のように私には思えます。信心の年数などに関係なく、どこまで「無疑曰信」となれるか・・・そのことが大事であり、熱原の三烈士の信心のすごさもそこにあったと思います。

「師弟不二」という言葉があります。池田先生と一体不二ということですので、私は「そう覚悟する」「決めきっていく」と決意します。(もちろん現実はそうできるものではありませんが、心はそう決めていく)
「わが身を仏と信じて妙法を唱えていきなさい」と一生成仏抄にあります。ならば「自分は仏だ・・・信じきっていく」と決意します。仏かどうかわかるまで信じない・・・とは思いません。すべてがその道理で、信心する上においては、大聖人様と池田先生のことだけは絶対、間違いがないと決めきって信じていこうというのが、私の信心なのだ・・・と、虎キチさんに言われて、あらためて考え、確認できたように思います。




2015年04月05日(Sun) 20:56
信仰における「信」とは、「わかる」とは
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王者の剣さん、お邪魔します。
虎キチさん、ご無沙汰しております。

テーマは、信仰における「信」ですか。

王者の剣さんも、ご存知のように虎キチさんは、会員ではありませんが
小説人間革命等で、「山本伸一」ファンなんですよね。

私たちが、通常、「信じる」というのは、「御本尊への信」のことですが

「御本尊(曼荼羅)」とは、何ぞや?といえば

✿・・・・日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし・・・御書1,124ページ

とあるように、日蓮大聖人の「たましひ」つまり、「ご精神」
日蓮大聖人の「ご精神」といえば、
世界中の民衆を、幸福にしたい・・・それだけです。

南無妙法蓮華経で、全ての民衆が幸福になるよ、例外はいないよ・・
これだけなんですよね。
簡単すぎて、インチキかと、思いたくもなりますよね。

と、ところが、今は、末法という時代で、民衆のこころは、濁りきっていて
せっかく、大聖人が、幸福になる方法を教えてくださっているのに、
その「幸福になる方法」を「信じない」民衆が、ゴロゴロいるわけなので
私たち創価学会員が、まだまだ、頑張らなくてはいけないのですが、


でも、民衆は、本当に自分が、断崖絶壁的苦悩に直面しないと
せっかく、創価学会員から、「幸福になる方法があるよ」と教えてもらっても
「信じない」のですよね。(注・同じ御本尊、同じ題目でも、創価学会でないとNGですが今回は、この点には触れません)

学会草創期の方々は、それこそ、みなさん、貧乏人と病人ばかりと蔑まれ、
断崖絶壁的苦悩の方たちで
藁をもすがる気持ちで、それこそ、道に落ちていた聖教新聞の体験談で
即入会したという方もいるくらいで、

不詳私も、入会したものの、本当に困った時に、初めて
真剣な唱題をしました。
真剣な唱題、つまり、「信を込めた唱題」をすると、曼荼羅御本尊の日蓮大聖人の「たましひ」と共鳴できるのですよね、そのしくみで、「仏界」というものが、自分の内側から出てくるのですよね。

そうすると、先輩たちが言っていたことが、少しだけ「わかる」のですよね。

でも、この時点では、まだ、日蓮大聖人の「たましひ」である世界中の全民衆を幸福になんて、崇高な精神状態ではないのですよ、ともかく、まずは、自分、自分、自分、


本心(世界中の民衆を幸福に)でなくても、不思議なことに
学会活動を続けていくと(当然、勤行唱題は基本で)
少しづつ、日蓮大聖人のご精神に近づいていくのですよね。

いずれにしても、御本尊への「信」を込めた唱題のみが、&学会活動(化他行を伴って)
自分も、その他の皆も、すべて南無妙法蓮華経の当体であると
つまり、「仏」といっても、菩薩の行動をする生身の人間意外にはいないのだと
「わかる」ようになるのですね。

ですから、池田先生と世界の人類の諸課題について「対話」している
いわゆる識者の方は、「菩薩」の方々です。民衆の幸福のための対話ですから。
菩薩の方々でも、御本尊への信(唱題)がないと
自分の生死は、解決はできないのですが・・これは又別の課題として。

と、ここまで書いただけで、大変な分量なので、ひとまず終わりますね。
2015年04月06日(Mon) 14:51
Re: 信仰における「信」とは、「わかる」とは
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大河さん 

お久しぶりです。

すいません。虎キチさんが学会員でないとはまったく知りませんでした。(笑)
でも山本伸一ファンということで、下地は十分です。信心できる日が来ればいいですね。

貧乏人と病人の集まりと言われた時代に比して、今は2世、3世の方が多く、経済的にも豊かな世の中になりました。作業服で会合に駆け付け、御書講義に感動し、「難しいことはわからんけど、南無妙法蓮華経唱えて折伏したら貧乏から抜け出せるんや」とその勢いのままに、なけなしのお金で切符を買って折伏に走った・・・そういう草創の方々の体当たりの信心が、私にはなぜか輝いて見えます。

しかし、今はそういう貧しい時代ではないですね。幹部さんほどいい生活で困っていないのか、覇気が薄く熱くない(笑)

それも広宣流布の過程ですのでやむを得ませんが、ハングリーな方が、強い信力、行力が出るのは確かです。

単純に強く信心していけばいいのですが、時代の閉塞感や希望のなさは事件一つ見ても陰湿ですし、草創の時と違い、会員の方に精神的な病が多いのも時代の特徴です。

その分、信心も簡単ではないですし、ネット社会もあいまって魔も見えにくいですね。大河さんなんか得意でしょうけど、私なんかわけがわからないのであまり見ませんが。(笑)結局、その意図するところは人間間の不信の生命を引き起こそうという企みのようです。特に創価系のものは絶えず不信と分断を狙っているのがよくわかります。

しかし、どんな時代であろうと、日蓮仏法が負けるわけはないですね。その意味で、数の力ではなく、一人の人間が仏法の力で人間王者として輝かないといけないと思います。その一人になるために私も信心しています。

結局、人間革命しゆくことにすべては凝縮されています。それ以外に平和も幸福も始まらない、それが創価思想だと思います。

とりとめのない話になりましたが、策も方法もない中を御本尊を信じてぶつかって行く、そして題目を唱え抜いていく・・・結局、いかなる世の乱れの時も、その人だけが魔を打ち破って輝いていけることだけは確かだと信じています。
2015年04月06日(Mon) 22:45
不信と分断を狙っている?①
編集


王者の剣さん
丁寧な返信ありがとうございます。
虎キチさんの質問に横入りしてしまい、申し訳ないです。
せっかくですから、びっしり書かせていただいので2回に分けます。

>すいません。虎キチさんが学会員でないとはまったく知りませんでした。(笑)

ええ、もしかしたらと、思いました。
創価学会員であることを前提に話しているような感じがしました。
もちろん、メンバーでない方も、創価の平和思想に共感される方が
多々おられるからこそ、世界中から、顕彰もされるわけです。
ただ、やはり、御本尊への唱題体験がないと、どうしても「通じない」話が
あるわけで、これは、会員でも、真剣な唱題体験がなければ同じですよね。

>でも山本伸一ファンということで、下地は十分です。信心できる日が来ればいいですね。

小説・人間革命という文字の世界だけで、創価学会をなかんずく池田先生を正しく認識できるのですから生命の濁りがないのですよね、私なんて、入会した後でも、おりにふれ疑問が湧いてきて、湧いてきて・・生命の濁りとのたたかいの連続でしたから。
その点、虎キチさんは、素晴らしいですよ。
もっとも、本当に信仰生活にはいると、それまで出てこなかった宿業等が
転重軽受の法理で出てくることもあるのですが。

>貧乏人と病人の集まりと言われた時代に比して、今は2世、3世の方が多く、経済的にも豊かな世の中になりました。作業服で会合に駆け付け、御書講義に感動し、「難しいことはわからんけど、南無妙法蓮華経唱えて折伏したら貧乏から抜け出せるんや」とその勢いのままに、なけなしのお金で切符を買って折伏に走った・・・そういう草創の方々の体当たりの信心が、私にはなぜか輝いて見えます。

人間が「生きる」「生き抜く」という原点の姿ですね。
この信仰にめぐりあえなければ、自殺してしまったかもわからないという人もたくさんいたわけで、ある意味、創価学会こそ、苦悩の庶民に、生きることを可能にした、究極の福祉貢献ですよね。国家でも成すことのできなかったことを一宗教団体がやってしまったわけですから。

>しかし、今はそういう貧しい時代ではないですね。
>幹部さんほどいい生活で困っていないのか、覇気が薄く熱くない(笑)

特に職員幹部の場合は、
失業等の生活の心配が無い分、思い切り会員に貢献しようとの誓願の問題になるのでしょうね。

>それも広宣流布の過程ですのでやむを得ませんが、ハングリーな方が、強い信力、行力が出るのは確かです。

そうですね、どのような分野にハングリーになるかは
個々の使命の問題でもあるのでしょうね。

>単純に強く信心していけばいいのですが、時代の閉塞感や希望のなさは事件一つ見ても陰湿ですし、草創の時と違い、会員の方に精神的な病が多いのも時代の特徴です。

精神的な病(苦悩)が、浮き彫りになる時代なのかもしれないですね、
昔、例えば、今のように義務教育の時代でなければ
引きこもり気味の子供は、そもそも学校に行かなくてもいいわけですから
精神的な病があるのか、ないのかすら、判明しないわけですね。
とりあえず、理解のある親族に守られて一生をつつがなく送れたということも
あったのかもしれないですね。

②に続きます
2015年04月07日(Tue) 11:03
①の続き
編集


>その分、信心も簡単ではないですし、ネット社会もあいまって魔も見えにくいですね。大河さんなんか得意でしょうけど、私なんかわけがわからないのであまり見ませんが。(笑)

このあたりが、王者の剣さんのコメントのメインなのかもしれないですね。
ひと頃からみれば、かなり下火になりましたが、それでもそこそこ繁盛している「問題提起サイト」は、事実ありますね。
皆さん、異口同音に、「池田先生と師弟不二」が合言葉ですが、

主として、昨年秋の会則教義条項改正に異議あり、ついでに、それを実行した
最高幹部に異議あり、と、それに便乗して、昨年夏の集団的自衛権閣議決定に
異議あり、不当(?)除名に異議あり、学会の活動に選挙支援があるのに異議あり等々ともかく、なんでも異議ありサイトですね。

ところが、そのような目眩がしそうな流れの中にきらりと光る投稿というものが事実あるんですよね。
それが、貴重ですね。
むしろ、何も問題なく安閑としているサイトでは絶対にお目にかかれない優良投稿というのは有って、それは、研鑽の糧にはなりますね。

>結局、その意図するところは人間間の不信の生命を引き起こそうという企みのようです。特に創価系のものは絶えず不信と分断を狙っているのがよくわかります。

例えば先ほどの「問題提起サイト」の方々の意図はといえば
本人なりに、師弟不二の追求という点は噓ではないのでしょうが
どこかで、道を迷っているとしかないのですよね。
ひとつの根本的因は、真剣な唱題のないところだと、私は個人的には思います。

意図といえば、こちらの創価カテ内の自称(基本的には皆が自称でしかない)創価学会員のブログでも、現役の青年部幹部ですが、「池田先生は邪宗へ堕ちてしまった」とか平然と書いているブログもあり、
そのブログ主の「意図」といえば
本人にとっては、「正直なありのままの思い」を書いたにすぎないわけです。

むしろ、そのブログ主にしてみれば、周囲こそが、「魔の働き」であると
本気で思っているわけです。

さりとて、創価学会員としての立場は保持したい、それも、ご自分の思い描くような創価学会として保持したい・・という、本人にしてもどこが支離滅裂かもわからない迷路状態なわけですが、
私は、その方も、何かご自分の一身上の「断崖絶壁的困難」に遭遇し
生き死にに関わるというくらいの重大場面に至って初めて
真剣な真剣な「信の一念の唱題」を、やり抜いた暁には
今、現在、主張しているような「先生は邪宗化してしまった」なんてことを
本当に何故あんなことを思ったのだろうかと、つきものがおちるように
サーーと、文字通り「元品の無明」が「元品の法性」になれば
あっという間に、良き変貌をしてしまうと思っておりますし
それを、陰ながら祈っております。
ただし、広宣流布への誓願があってそれは可能なことですが。

>しかし、どんな時代であろうと、日蓮仏法が負けるわけはないですね。その意味で、数の力ではなく、一人の人間が仏法の力で人間王者として輝かないといけないと思います。その一人になるために私も信心しています。

人間王者である「王者の剣」さんですね。

>結局、人間革命しゆくことにすべては凝縮されています。それ以外に平和も幸福も始まらない、それが創価思想だと思います。

まったくその通りと思います。
✿・・・・教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ・・・✿ですね。

>とりとめのない話になりましたが、策も方法もない中を御本尊を信じてぶつかって行く、そして題目を唱え抜いていく・・・結局、いかなる世の乱れの時も、その人だけが魔を打ち破って輝いていけることだけは確かだと信じています。

まったくその通りだと思います。
今現在、ご本人たちは「正義」と信じて「問題提起」している方々も
最後は、唱題が決めてだと思います。
おりにふれ、先生の指導を紐解きますが
昨日「御本尊は鏡である・自分の心を映し出す」との先生の指導に、あらためて感じ入るものがありました。
広布への誓願の一念で御本尊に唱題するのか?
同志(幹部も含め)への、不平不満怨念で御本尊に唱題するのか?
その一念が、全部、鏡に映し出されてしまうと、
そして、一念どおりの生命活動になってしまうと、
超長文、失礼いたしました。
2015年04月07日(Tue) 11:08
師子の道
編集
大河さんへ

超長文のコメント(笑)
またご意見ありがとうございます。

入信について、昔、体験談で聞いたのですが、ある方は、入院中のベッドで小説人間革命を読破し、それに感動して入会されたそうです。また私の地域の方で、立正安国論を拝読して、これまた感動して入会を決意されたという方もおられます。最後は勇気ある決断です。それが三世の幸福の扉の鍵です。機が熟したら虎キチさんもきっと入会されると思いますので、その日の早からんことをお祈り申し上げます。

信心においては真剣な唱題行があるかないか?そのことは言われる通り、とても大事なことですね。同じ意味で、純粋な求道の生命があるか?またその人の目指すべき処はどこか?仰せの一念ということもとても大事になってきます。

人の一念を見抜くことは難しいですが、純粋に御本尊と池田先生を求めていく人は、難があっても最後は正しい軌道に入っていけると思います。表向きは信心あるように見えて、名聞名利の一念や疑いの強い人、増上慢や臆病の人は最後は先生から離れ、創価の世界から離れていく・・・そういう姿を今まで何人も見てきました。

それらに本心を誑かされないために、日々の学会活動や同志の存在があります。そしてたとえ、宿命の嵐や魔の試練に千尋の谷に落とされようと、負けずに這い上がっていくときに、広宣流布のために一人立つ師子の生命が出てくるものです。師子の生命は師弟共に広宣流布を目指すものです。まずはそうならねばなりません。先生を求めて行くこと、試練に負けない強き心がどれだけ大事かということですね。すべての信徒にとって、先生こそ生命の安全地帯です。心がそこから離れることはとても危険です。体験も含めて私はそう思います。


共に負けないで精進していきたいものです。
2015年04月07日(Tue) 18:39
虎キチさんのご理解に感謝
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学会員ではない「虎キチさん」が、学会(員)のことを
理解され、応援されている背景は、レオさんのブログ記事
のコメントから窺い知ることが出来ます。

http://saburoku.org/dream/?p=2006#comments
『夢の醸造所 3.0/愚癡の生命をも活かす妙法の力』

また、「虎キチさん」が、先生の『「SGIの日」記念提言』を
よく読み込まれていることも、同じく次の記事コメントで
よく分かります。

http://saburoku.org/dream/?p=1897#comments
『夢の醸造所 3.0/テロとの対話』

今回は、ご紹介まで。
2015年04月10日(Fri) 10:48
Re: 虎キチさんのご理解に感謝
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福島の壮年さんへ

いつもありがとうございます。
福島の桜はいかがですか?

虎キチさんのご紹介ありがとうございます。
創価の世界、先生の世界に共感いただいているのですね。

信心の有無は別にして、やはり生命に先生の声が響いているのだと思います。
信心しなくても法華経の思想を命で感じる方がおられます。


池田先生のことを何も知らないで、信心に飛び込んだ私なんかとは実に対照的です。
それが非常に面白いと思いました。

自然な流れですと次は日蓮仏法ですね。






2015年04月10日(Fri) 22:06
初めまして!
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王者の剣さん、初めまして、こんにちは!

Blogを3日間かけて、全て読ませて頂きました。
大変に感動させて頂き、勇気を頂きました。

私は大阪に住んでいる壮年部なのですが、苦悩の20数年を過ごしてきました。

いたたまれず、胸中を吐き出したく自身の出来事をBlogで書き出したのですが、王者の剣さんの記事を読ませて頂き、本来の信心の原点を思いださせて頂いたような思いになり、題目をあげさせて頂きました。

ご自身のご本尊様への確信、先生への思い。
私はまだまだ渦中なのですが、改めて出発していかなければという気持ちにさせて頂きました。

また次回の記事を心待ちにして読ませて頂きたいと思います。

勇気を湧かせて頂き、本当にありがとうございました。



2015年04月11日(Sat) 19:48
Re: 初めまして!
編集
hide優さん

初めまして。元気のいいコメントありがとうございます。
大阪ですか?同じ関西で壮年部…とはいえ、そちらはヤング壮年部ですね。

三日かけてブログを読まれたとか?(笑)恐縮です。

挫折から幸福が生まれ、失敗から成功が生まれる。
信心の素晴らしさはマイナスをプラスにできることです。

幸せの花をいっぱい咲かせてください。

ブログもまた訪問させていただきますね。
2015年04月11日(Sat) 22:31
王者の剣さん こんにちは
編集
実は昨年、はじめまして、聖教新聞購読者です、の挨拶をして賛同コメントを入れさせていただいた事があるんですよ

名捕手だった古田が「プロに入って、自分が野球を体得できてない事に気づかされた」と言ったことがありますが
野球を高いレベルで体得しているからプロに入れている、という前提があるからこそ、深い言葉として響いてきます
同様に、王者の剣さんは、実は相当わかっている、という前提を承知したうえで、「信じるということ」を読まないといけなかったですね

私は毎年、今頃の時期、阪神タイガースの優勝を信じて疑いません
冷静かつ的確な戦力分析をして、優勝に疑問を持つようでは虎キチになれません
不信と分断を狙うカーネルサンダースの呪いなど怖れてはいけないのです
また今年も無理かも、という不安がミジンコでもあれば虎キチじゃないっす

これこそ盲信でなくて、なんでしょう(爆)

名文に対し、盲信のすすめ、などと失礼なことを申し上げましたが
王者の剣が私の患部に突き刺さったので、ギャッと言う反応となってしまったこと、慎んでお詫び致します
2015年04月12日(Sun) 12:44
法華経の智慧 信解を読みました
編集
大河さん こんにちは

断崖絶壁的苦悩に直面しないと信じない、は、おっしゃるとおりなので心が痛いです
民衆救済のため、自ら苦難の中へ飛び込むのと大違いなので面目ない限りです

大河さんは「入会した後でも、おりにふれ疑問が湧いてきて、湧いてきて」と言われてますが、私には、それは健全な道順に思えるんですけどね

疑問が湧いては晴らし、湧いては晴らしして、疑いが無くなるのが「無疑曰信」なのでしょうね
何も疑わずに信じるのなら「不疑曰信」の方がふさわしいですかね

信仰における「信」とは、「わかる」とは

『法華経の説く「信仰」は、人生という難問題に対して、安易な回答を得ようとするのではない。
むしろ、そういう安易さを拒否し、「信」と「解」という、“生命探究の二つの武器”を握りしめて、限りなく問い続け、限りなく向上していく。
そのエネルギーを与えてくれるものなのです。』
『本来、一体のものであるが、あえてわければ、「信から解へ」、そして解によって信を強める「解から信へ」――この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが「信解」の本義といえるでしょう。』
『今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき「信と知の統合」です。
それは壮大な文明的挑戦です。
「信念なき知識」と「理性なき狂信」に引き裂かれた人間社会を復興させる試みです。』
新しき「信と知の統合」という文明的挑戦を最初に開始したのが山本伸一ですよね

福島の壮年さん こんにちは
私の紹介だけに登場していただきありがとうございます。

新・人間革命「福光」の章は、渾身の詩で始まり 
冒頭の『一九七七年(昭和52年)三月十一日、山本伸一は、福島県にむかった。』
の書き出しだけですでに感動してしまいました。

今後ともよろしくお願いいたします。
2015年04月12日(Sun) 12:54
こちらこそすいません。
編集
虎キチさんへ

こんばんは。重ねてのコメントありがとうございます。前回はこちらこそ大変失礼いたしました。内容も学会員の方のものといってもいいものでしたので、つい信じ切ってしまいました。(笑)

レオさんのブログにもありましたが、後は唱題されればいいだけの状態ですね。

人には無限の可能性があり、それを顕すことができるのが信心です。冬の桜の樹の中にはあんなにきれいな花が秘められ、春の縁に触れて開花します。ありふれた石であっても、その中には森をも焼き尽くす火を秘めています。

それと同じように、人には仏の生命が秘められていて、それを顕すことが信心の目的となっています。しかし、仏の生命は凡夫には見えませんので、御本尊様に向かい唱題することによって顕すようにしてくださいました。仏の生命は世界を平和に、人を幸福になしゆく生命です。その生命がどの人にもあると説かれます。顕す鍵はもちろん「信」の一字です。

虎キチさんの中に眠っている仏の生命は、人も世の中も幸福にしたくてしょうがない命です。今はいつか出陣していくために休息中です。(笑)春が来れば起きだしてきっと立ち上がっていくと思いますよ。

阪神ファンは毎年、ヤキモキしますね。私は特にどこがファンということはありませんが、甥っ子に誘われ、年に一、二度、甲子園に行きます。阪神は時に見事に期待を裏切ってくれますが、この信心だけは信じる人を裏切ったり、見捨てたりがありませんので、安心してファン(理解者)でいてください。そしていつかファンからチームの一員で大活躍されることをお祈りいたします。(笑)
2015年04月12日(Sun) 21:57
虎キチさん・・法華経の智慧・信解品
編集
>『今、必要なのは、現代の諸科学をも視野に入れた、新しき「信と知の統合」です。
それは壮大な文明的挑戦です。
「信念なき知識」と「理性なき狂信」に引き裂かれた人間社会を復興させる試みです。』

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書籍「法華経の智慧・信解品」から、引用してくださったのですね。
私もあらためて読み直してみました。

本当に深いので、再読しても再読しても、新・発見はあるのですが、

ともかく、私たちが生きるということは、社会総体を信じないと
不可能ですね。
お店で売っているものを、疑ったら、買えない、食べられない、生きられない
それでも、私たちの「信」を裏切る食品偽装とか、時たま発覚もするわけです。

普通は、警察官とかは信じていますが、それでも時には裏切られることもあり、
信頼が大事な教員であるとか、政治家もそうですが

ところが、「宗教」というと、驚くほど、無頓着なんですね、民衆は

理性という点では、五重の相対という宗教を考える基準の「理論」があり
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/kijun/01.html

私なんか、入会してすぐに学び、感動して

なるほど、それで、仏教といっても、いろいろな「真言宗」とか「天台宗」とか
あるのだなと、それまで、疑問だったことが、創価学会で教えてもらって納得

そちらは、結果オーライでも
ところが、厄介なことに、王者の剣さんの最新記事である
学会組織、これが、結構、しんどい・・
実は、このしんどい、めんどう、な、組織こそが、人間革命の鍵でもあるのですが
とりとめないですが、

「信」とは、実に深いものですと、あらためて再認識しました。
2015年04月13日(Mon) 22:14












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