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雪山童子

睡蓮-1


 法華経にはたくさんの比喩や説話が出てきますが、私が入信したときに読んた説話で、特に印象に残ったのが「雪山童子」のお話です。

 入信して30年たった今も、この説話に接するたび、初心に返って、心が洗われるような気持ちを感じます。常日頃、何の前触れもなく、心にこの童子の姿が浮かぶこともあり、その姿に自らの信心の姿勢を反省することもあります。

 どうして私はこんなにこの説話に引き付けられるのか・・・もちろん、その根底には仏法を修行していく究極の心構えが説かれていることがあるからだといえます。しかし、それ以外にもう一つ、この説話が物語として本当に素晴らしい構成になっているためではないかと思います。

 物語の詳細は省きますが、雪山という人里離れ、静まり返った奥深い山で、一人の童子と鬼神との1対1のやりとりがとても臨場感にあふれ、鮮やかに描かれます。

 帝釈が鬼神に変じて雪山童子を試すこと・・・おなかをすかして暖かな人の血と肉を食べたいこと・・・雪山童子がそれに対し、法を求めて、あまりにも潔く身を投げ出すこと・・・そしてその瞬間に鬼神が帝釈に戻り、童子を讃嘆すること・・・など短い中にもすべてが比喩的であり、大変ドラマチックな展開になっています。(いつか支部総会でもあればこれをみんなで演じるのもいいと思っています。)

 それにしても雪山童子の心には一分たりとも身を惜しむ気配がありません。私たちは普段、命が惜しくて信心しているといっても言い過ぎではないのに・・・
生きて幸福になりたい、お金も健康も長寿もみんなほしいと思い信心したはずです。それなのに雪山童子は最初からそれらを捨てる覚悟を持っています。これはすごいことです。

 半偈のために恐ろしい鬼神に身を投げ、しかも自己のためでなく、後に続く人のために、あたりの木に経を書き付けて残そうとした。まさに童子こそ真の仏であり菩薩にちがいありません。このことによって童子はさらに立派な仏になったかもしれませんが、因果具時の意味を思えば、雪山童子はこの行為をなさんとする時、すでに仏であったとも言えると思います。

 私たちも日々、悩みを抱えながら、末法悪世において、時には悪口を言われながら、仏道修行をしています。いつか仏の生命を感得するという考え方もあるでしょうが、こうして日蓮大聖人と創価学会に、この身を投げ出して戦おうとしている、その姿にこそ仏の生命が躍動しているに違いありません。

 また創価学会の3代の会長、牧口先生、戸田先生、池田先生こそ、現代にあって、雪山童子の「我不愛身命」を実践された方といえます。保身のために神札を受け、軍部に追従した宗門と、命を惜しまず国家を諌暁した創価学会と、どちらが仏意を受けた団体であるか・・・正邪はあまりにも明白であります。

 一人一人が難を乗り越え、雪山童子のようにより強く「不惜身命」の心で生きて行くことが人間革命の道であり、その行く手を切り開いてくださったのが3代の会長にほかなりません。

 修行の途上で我らを悩ます煩悩の山は、帝釈が鬼神に変化したものと心得、潔い信心の利剣で魔を打ち砕き、威風堂々、前進してゆきたいと思います。そして信心が停滞した時は再び、この説話に戻り、自らの信心の糧にしていきたいと思います。


 「雪山童子」につきましては、日蓮大聖人の御書の中に20編以上にわたり、大小引用があります。特に「日妙聖人御書」、「松野殿御返事」などで詳しく語られています。(下記URL参照


参考URL
アニメ雪山童子
日妙聖人御書
松野殿御返事



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