2017
08.14

一人の「不軽」となって

Category: 未分類
 
 信心は、私のように智慧も福運も乏しい凡夫のため、まさに庶民の味方と言っていいものである。仏法に無知であっても、我が生命を仏と信じて「南無妙法蓮華経」と唱えゆくならば、何処(いづこ)の地のどなたであれ、宇宙のリズムに乗り、歓喜と感謝の生活になっていくのであり、その喜びが万里の外から幸福を招き寄せる。

 私が学会で信心するのは、現証として自分が様々なことで、人間革命していることに手ごたえを感じているからにほかならない。そうでなければ、自分も信心に迷いを持つだろうけど、生活上に苦楽はあっても、信心に迷いはない。何があろうと大丈夫と、頼もしくやっていけるのである。

 「大御本尊を受持しないものには幸福はやらんぞ」などというのでは、実に心の狭い意地悪な仏ではないだろうか?逆縁であれ、謗法であれ、一切衆生を救いたいのが仏であり、まして題目を唱え、心で求道する人であれば、喜んで功徳を差し上げましょう・・・それでこそ広大無辺の仏様の慈悲だと思う。

 「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れ偏に末代の今の世を表するなり(御書1472㌻)」

 愚鈍で人からも馬鹿にされたであろう須梨槃特(すりはんどく)は、師弟の道を一心に貫いて成仏し、膨大な経を知っていた提婆達多(だいばだった)が仏に背き、無間地獄に堕ちたことは、信心を考える上で大事なことだ。普通は教学に詳しい人に会うと、「へえ、すごい人だなあ」とつい尊敬もしたくなるが、それは信心の深さとは同じではないのだから面白い。またそこに教学の知識がある人が、増上慢となって退転する落とし穴もあるのだと思う。

 教学の話で対応できないからといって、人を馬鹿にするようでは、「どの人も仏である」という仏法の基本も知らず、かえって人から尊敬をされない増上慢の人だと言っていい。そんな人に自身の宿命と戦いながら、けなげに信心に励む人の気持ちなどわからないだろう。

 信心は「信と不信」の問題が根本であり、それに「焼きもち、憎悪、怨嫉」といった心の問題がある。人を見てそこを見抜けば、たぶらかされることはない。学会の婦人部の方々などはそういうところは、実に鋭い。(笑)

 池田先生は随筆「我らの勝利の大道」の中で次のように言われている。

「教学ができることと、信心があることとは、そのままイコールではない。これまでも教学を得意にふりかざしながら、退転したり、反逆した愚かな増上慢が出たではないか。        
(中略)偉大な信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはき違えては、絶対にならない。」
と・・・

 名もなき庶民であっても、地道に唱題・折伏に汗を流す人が実践の教学を知る人であり、御書を身で読む人だと思う。現場での実践をおろそかにして、信心を理屈だけでわかったと思う増上慢の人になるなと、私も自分を戒めたい。

 人を批判し、腐すことばかりやれば、やがて自身の仏も冥伏し、生命は枯れてゆくだろう。逆に人間の生命を仏と信じ、賛嘆しゆけば、おのずと自身が輝いてくる。魔は人ではなく、その働きであるといわれる。ならば、その働きを責め、その人の悪を取り除くことは、その人を救わんがためでなければならない。

 幸福を目指すなら、まずは自他共の仏の生命を尊敬し、讃嘆できる自分へと境涯革命することがその一歩だと思う。それがこの仏法の平和と幸福への方程式であり、智慧である。私も一人の不軽菩薩となって、使命の道を歩いていかねばと思う。




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コメント
王者の剣さん
こんにちは(^^♪毎日、雨で梅雨のようですね。

『教学ができることと、信心があることとは、そのままイコールではない』

本当にそうだと思います。
仏法は『信』が大事です。
頭が良くても教学があっても『不信』では成仏できません。

教学は人に希望を与えるために使ってこそ生きた教学になると思います。大聖人は、漢字が読めない門下に、わかりやすくかな文字を使われています。
わざとわかりにくい難しい表現をして、自分を飾るための道具にしてはいけないと思います。
ランdot 2017.08.16 11:40 | 編集
ランさんへ

こんにちは

お盆休みいかがお過ごしですか?

信行学ですので、学も大事ですが、何のための行学か・・・
14日付の「新・人間革命」に私の記事と同じような内容が出ていました。
(私も前日に記事を書いたので同時で少しびっくりしましたが・・・)

少し長いですが引用しますと・・・

「これまでも実践なき偏頗な教学に陥り、われ偉しと思い、傲り高ぶって、健気に信心に励む同志から嫌われ、退転していった人もおりました。まことに残念でならない。私たちはいわゆる職業的仏教学者になるために教学を研鑽するのではない。
自身の信心を深め、一生成仏を目指すためであり、広宣流布推進のための教学であることを、
あらためて確認しておきたいのであります。」
創価教学とは実践の教学であり、自他共の幸福を創造する生命の法理の探求である。(新・人間革命6147)

理屈だけの教学では、実践で体得した教学からすれば、
言葉をもてあそぶようなものではないでしょうか?
「事」と「理」の違いは天地雲泥です。
信心で体得したものは三世に崩れない確かなものだと思います。

「御書の一節でも身で読めばすごいことだ・・・・」
私の先輩もよくそういわれていました。
個人折伏も100世帯を超えたすごい人でしたが、決して人前で難解な話をやる人でもありませんでした。

「信」こそが仏法の肝心であり、仏様が喜んで受け取ってくださるものですね。
「以心得入」と心得、生涯不退転の決意で、創価の大道を歩いていきましょう
王者の剣dot 2017.08.16 14:08 | 編集
素晴らしい記事ですね。

私は双極性障害と統合失調症とおまけに自閉症とパニック障害も持っていますので、あまり会合に出れません。(発作を起こして迷惑をかけてはいけないので)

以信代慧、以心得入とはまさしくその通りですね。

私はほとんど活動していなかったのですが、(病気のせいもありますが、それ以外にも理由はあります)或る人が地道に家庭訪問してくれたおかげで信心を思い出すことが出来ました。

その人は、父親が事件に巻き込まれ殺され、兄は統合失調症で腐乱死体で見つかり、おまけに自身は糖尿病でインシュリン注射を打ちながら懸命に働き、活動も頑張っています。

その人は、私が障害者だということを差別するどころか、全く対等の人間として接してくれました。病気への配慮ももちろんありますが、人として苦悩と辛酸を味わってきた方だからこそ出来る接し方だと思います。

学会の中で嫌な人間(例えば宗門と決別したときに会館で日顕の顔写真を踏み絵していた、一部の極端な教条主義の学会員)を見てきたせいか、学会への不信感が相当ありました。

しかし、学会の中で、本当に苦しみながら懸命に頑張っている名もない、決してスポットライトを浴びることのない一人の人間に出会って感動したのです。

この人こそ仏様だ、と。

引っ越しをしたので、組織は離れますが、心は絶対に離れません。

その人から、最後に池田先生が若いころに着用していたネクタイを頂きました。

私はシクラメンという歌手の「僕の宝物」という歌詞を送りました。

この友情は、例え私が死んで生まれ変わっても永遠に変わることのない友情だと思っています。

そんなかけがえのない友情の出会いを作ってくれた創価学会に今は感謝の気持ちでいっぱいです。

拙文失礼しました。

ネモdot 2017.08.20 17:08 | 編集
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