広布の大河に君ありて tori

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「我、仏なり」

 生きていくということは、ある意味とことん自分と向き合うということかもしれません。「自分・・・」この厄介な存在から時には逃げ出したり、見切りをつけたくなっても、生きてる以上、また死んだ後も永遠に逃げ出すことはできない。そういう意味からすると、「自分」ほど自分にとってどこまでも大切なものはないというほかありません。

 死んですべてが解決するなら、それはある意味、楽かもしれませんが、また生まれ来て、この命で生きて行くと法華経は説いています。そのため、この命を豊かに強く、自分らしく最高の価値を発揮しながら、生きてゆけるようにできたら、それは本当に素晴らしいことです。
 信心する功徳は今世のみならず、来世、そして未来永劫に福運として持っていけるのですから、この人生でやる、やらないでは雲泥の差が出てしまいます。折伏に行っても大半の人がこの信心をたもとうとしない、本当に残念な思いでいっぱいです。生命の因果を知れば、この信心の話を聞いてやらないのは「一生の不覚」と言うほかありません。
「 うれしきかな末法流布に生れあへる我等・かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人・・」との御文を噛みしめ、もっと弘教のできる自分にならねばと思います。

 来世もこの同じ自分で行くとしたら・・・私など悲鳴をあげたくなりますが、皆さんはいかがでしょうか?
 それを創価学会で一生懸命信心していけば、生死、生死と最高に幸福な境涯にしてあげましょうと言われているのです。
 このことを信じるか、どうか・・・私は信じることに決めました。どうせ信じるなら、強く信じて行こうと決めました。ほかに何のとりえも見当たらないからです。財産も地位もなければ、天賦の才もない・・・なまじ、何もなかったのでこの信心に賭けようと思ったのかもしれません。信心していなければそれこそ今頃、死んでいたかもしれないと思うこともあります。

 入信したときに、私は信心のりっぱな先輩の方に質問しました。「いったい、悟りとはなんですか?」するとその方は間髪入れずに「自分を知ること以外に悟りはないよ・・・」と教えてくださいました。確かに自身の生命を妙法と知ることが仏法の目的であり、それを教えるために、仏様は日々、様々な方便をもって私たちを化導してくださるわけです。

 仏の生命とは一人一人の生命の内奥にあるわけですから、玉ねぎの皮をむくように、あるいは薄紙を剥いでゆくように、自分というものをとことん剥いでいく・・・その途中には過去の謗法の傷が出る、貧乏もあれば病気もある、不信も湧けば怨嫉も起こる・・・常に自分の命の悪癖とも向きあわなければならない・・・第六天の魔王は十軍の戦を起こして、人を悩ませ、本気で信心を破壊しにかかってくる・・・            
 それらの宿命と魔との戦いから逃げずに、いやそれらをバネにして信心を強盛にしていけば、必ず仏の生命が厳然と自分の身に顕われると説かれています。


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 きっと仏様は私達が仏だということを教えたくて仕方がないのです。お金も地位も夢の中の栄えと仰せです。仏になることが最も大切だと叫ばれているのですから。

 私はお題目をあげる時、「仏であることを悟らせてください」と拝みます。仏であることを教えたい仏様と、仏であることを知りたい私・・・苦しみの底にある時も「我、仏なり」と思うと、勇気と希望が湧きます。

 法華経では私たちのことを「仏であることをすっかり忘れてしまった衆生」と説かれています。顛倒の衆生です。池田先生は「思い出すのです」と言われています。
「謗法の酒に酔ってすっかり自分の正体を忘れてしまいました。自分の正体を思い出させてください・・・南無妙法蓮華経・・・」そう祈らずにはいられません。

 法華経の「自我偈」は「自我得仏来」に始まり「即成就仏身」で終わります。「自」で始まり「身」で終わる。つまり「自身」を説いている、とこれも教学で学びました。
 どこまでも一人の人の幸福に光を当てている、そして一人の人間革命が他者を救い、地域を元気にし、そして世界を大きく平和と幸福にと変えていくことを教えています。

 その日蓮大聖人様の、妙法の信行学の実践を教えてくれるのが創価学会であり、師匠である池田先生です。どんな末端にいる会員であろうと、池田先生を求めれば不二になれるはずです。全学会員が師匠との1対1の心の対話を持って信心している。あたかも師匠から投げられた無数の糸を異体同心の会員が一本ずつ握りしめている。その糸を必死に手繰り寄せながら、人生の荒波と広宣流布に立ち向かって行く・・・それこそが人としての無上道であり、はかない蒼蠅であっても驥尾に付して万里をわたることができると御書にも仰せの人生です。

 日々の自分の愚かな姿に、ひとたびは嘆くことがあっても、また顔をあげて、未来を見つめて希望の前進をしていきたいと思います。「我、仏なり」との気概を持って・・・

 そして妙法を一人でも多くの人に語りゆくことが使命であり、また今生人界の思い出になると決めて、仏法対話に、今日よりまた新たな挑戦を開始していきたいと思います。




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生きていくということは、ある意味とことん自分と向き合うということかもしれません。「自分・・・」この厄介な存在から時には逃げ出したり、見切りをつけたくなっても、生きてる以上、また死んだ後も永遠に逃げ出すことはできない。そのことに気にかけなかった私です。50を過ぎて気がつきました。
2013年07月28日(Sun) 18:50
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うるとらまんさん、苦難の人生を最後には笑えるように、焦らず行きましょう!もう私なんか持久戦の信心です。魔が勝つか自身(仏)が勝つか、執念も必要だと思います。どんなに大変でも信心さえあればきっと勝ちますよ。
2013年07月30日(Tue) 05:18
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こんばんは アオイです

この前は私のコメントに返答してくださって
ありがとうございました。

今日もコメントさせていただきます



>「自分を知ること以外に悟りはないよ・・・」

 なんと素晴らしい言葉なんでしょうと
 思いました。

 はっとさせられました・・



>私はお題目をあげる時、
>「仏であることを悟らせてください」と拝みます


 よくわかります。


 私は貴殿様とニュアンスがちょびっと
 違いますが


 「生も歓喜、死も歓喜と思える生命状態に 
  してください」

 「生命は永遠である、とこの生命に感じさせてください」

 といつも祈っております。


 正直、死というものに非常に怯えています。
 
 生命は永遠なのか?
 生命とはなんなのか?

 ノイローゼになるくらい悩んでいます。


 ですが、題目を上げると
 不思議と自分の生命がもの凄く歓喜します。

 なぜだかわかりませんが涙止まらず
 今、生きていることに感謝します。


 本当に題目って不思議ですね。

 
2013年09月09日(Mon) 17:05
生も歓喜・・・
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 アオイ様

 コメントありがとうございます。
  仏法では生老病死に解決がつくということになっていますので、死の問題も必ず解決がつきます。戸  田先生が「死の問題は時間がかかりました。これに解決がついたので私は創価学会の会長になった」  と述べられています。
  獄中での悟達で生死をこえられたのだと思います。

  アオイさんと違い、私は死に関しては楽観的です。長生きはしたいと思っていますが、生きるのに精  いっぱいですよ。

  死や生命の永遠性についてはいろいろと教学で説かれていますので、それを学び信じるしかありませ  ん。信心が深まればわかってくると思いますが、それはアオイさん次第ですし・・・ノイローゼにな  るほど考えてみたってわからないものはわからないので、ほどほどにというしかありません。やがて  死ぬことについても安心できるようになると思います。
 
  ところで信心してどのくらいになられるのですか?お題目に歓喜があるというのはすごいですね。若  いのですから死ぬことより生きることを考えてください。生に歓喜があれば死にたくはなくなります  よ。御書にも「一日でも長生きして功徳を積みなさい」とあります。ただ死ぬことが怖くなくなれば  いいのです。

  信心が強ければ、折伏に歩きたくなりますし、広宣流布のために健康で長生きしてお役に立とうとい  うようになります。先生も健康長寿を指導されています。

 特に自分から死んだ場合は仏の生命を自ら傷つけるわけですから、その罪は重いといえます。絶対に  してはいけません。

  池田先生のように強く朗らかに、生きて生きて生き抜くのが本当の信心ではないでしょうか?
2013年09月10日(Tue) 20:50












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