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2019
06.13

王家の人と長者窮子

Category: 未分類


 先日、高校時代、同じクラスだったT君に実に40数年ぶりに会いました。T君は学会2世で、創価大学を出た後、日本でも有数の大企業に就職、最後は社員1万人を超える部門のトップにまでなった人です。テレビや雑誌などでも紹介されたこともあり、社会での実証も申し分なく、社会人としては超一流の人といっていいかと思います。

 一方、私はと言えば、真言宗の家に生まれ、高校時代、創価学会の「そ」の字も知らず、高校を出てからも「真言亡家」のままに他国を放浪し、何の目的観もない青春を送り、精根尽き果てて創価学会に拾われました。入会後もこれまた思うにまかせない難行苦行の道の連続で、近年になってようやく信心に目覚め、わずかばかり確信を持つにいたった、いわば「長者窮子」のような人間なのです。



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 そんな二人が、同じクラスだったということで、ある人の計らいで会うことになったのですが、T君は同じクラスだったにも関わらず、私のことをまったく覚えていなかったのです。そのこともあり話があまり弾みませんでした。

 私が入会後、調べるうち、同じ学年で学会員だとわかったのはわずか三名で(他にいるかもしれませんが)、T君と会ったならば、その稀有(けう)なことを讃えあって、さぞかし感動するだろうと、私は思っていたのです。

 もちろん私が二人の再会に期待をしすぎたのかもしれません。しかし、なんとなくその後、その出会いを思い出しても私は楽しい気持ちになれないのです。立場は違っても学会員同志であるならば、もっと響き合い喜び合うものがあってもよかったのではないか?それが二人の間に生まれなかったのは、なぜだろうと思うのです。

 T君と私の住む世界があまりに違ったせいか?あるいは40数年ぶりという空白の時間がその原因なのか?いずれにしろ、T君の生命は私との出会いにさほど感動はしなかったように思います。

 池田先生が言われるように、信心の世界は地位や名声は関係ないはずです。それらは身を飾る鎧(よろい)のようなものです。T君の鎧が立派で、私は鎧も兜も持ち合わせていない・・・そうした立場の差があっても、生命の次元では平等です。またお互いのその時々の外面の姿は仏法の眼で見るなら、すべては「願兼於業」と言えるものです。

 富や名声、貧乏や病気、そうした衣装をすべて取り去った裸の生命・・・それがその人の本性であり、煎じ詰めれば「仏の生命」です。その仏の生命で感じ合えれば、お互いの差異を越えて、信心の熱と熱で、生命は瞬時に感応できるものだと思います。


 あとで少し感じたことは、T君がより世法面を重んじた信心をしてきたのではないかということです。一方、私はブログに書いているように、人の生命が仏の生命であるということに、常に焦点を当てて信心しています。外に開く信心と内に掘り下げていく信心といえるかもしれません。どちらも間違いではないのですが、そうした違いが、二人の信心にあるのかもしれないと思いました。

 もちろんこれからも交流が続けば、私も望むところです。その時には、お互いの鎧兜(よろいかぶと)を取り去って、地涌の友として忌憚のないお付き合いをしたいと願っています。

 T君は創価の王家の人間であることを忘れずにいた・・・私はすっかり謗法の酔いが回り、そのことを忘れきって、貧民となって諸国を放浪してきた・・・とそんな風なとらえ方もできると思います。しかし、どちらも元は王家の人(仏の生命)であることに変わりはありません。創価家族という言葉がありますが、私はT君と会って、ただその一点を確かめ共有したかったのだと思います。

 その夜、地元に帰り、いつもの地区の皆さんと勤行をしながら、私は安心していました。また明日から私はこの人たちと一緒に生きていくのだ。貧しく名もなき人たちの輪の中で、私自身も「長者窮子」の一人として、一生成仏を目指していこう・・・と。私は私を生きるしかない・・・そのことを喜ばねばと思います。



参考:長者窮子の譬え
    長者とクージ


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