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2020
05.07

逆境こそ私の本舞台

Category: 信心



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 5月の連休もコロナウイルスによる自粛の状態が続きましたが、今しばらくは自重しながらの生活ということになります。私の住まいは田畑が広がる田舎ですので、感染のリスクは都会ほどではありませんが、やはり用心するに越したことはありません。
 
  実は私の地区には信心に対していつも否定的な考えの同志の方がおられます。残念というほかありませんが、そういう人を訪問した時、もっと前向きに希望ある言葉がその人の口から出ないものかと、こちらの気持ちも悲しくなります。信心の心がある人、その心が出ない人・・・そこには何とも大きな開きがあるように思えて仕方ありません。

 信心があるというのはどういうことか・・・結論として、善きにつけ悪しきにつけ、何があろうとさらに御本尊へと強く向かっていく人のことではないかと私は思います。

 いいことがあれば感謝できます。つらいことがあれば御本尊にしがみつく思いでぶつかっていけます。ありのままで幼子が親に抱きつくがごとく、見栄も格好も関係ない、正直に自分をさらけ出してぶつかっていく・・・その人を仏様が見捨てようはずがない。またそれが凡夫の正直な信心の姿ではないかと思うのです。

 今回のコロナウイルスのために商売がやっていけなくなり店をたたむ人もあるかもしれません。そしてそれに不信を抱いて信心から遠ざかる人もいるかもしれない。逆に今こそ「変毒為薬」、「人間革命」のチャンスと捉え、さらに強く御本尊に向かっていく人もいると思います。当然、後者の人こそが「信心のある人」だと言えます。

 まさに試練の時こそその人が篩(ふるい)にかけられる時であります。その時に迷うことなく、学会活動に打って出る、ひたぶるな唱題に励んでいく・・・そうすれば難を乗り越えるだけでなく、最後は「一生成仏」の仏果を得ることができます。四条金吾殿しかり、池上兄弟しかり、死んであの世に旅立つ時に「大聖人様、あの苦しい時に私は一歩も引かずに御本尊を信じ抜きましたよ」そう晴れやかに言えるようにしておきたいものです。

 いい家に住んで贅沢な暮らしをして、人並み以上に楽しみを得て、それが功徳・幸福だというのはあまりにも浅薄な考えです。それが目的というなら信心をしないでも世間にそういう人はたくさんおられるでしょう。信心の本当の功徳は「発迹顕本」であり「一生成仏」であり、それだけはお金を積んでも買えない・・・天皇陛下でも総理大臣でも日本一の金持ちの人でも手に入れることはできないものです。

 その意味で信心強盛な学会員はどの人よりも尊貴でありがたき人です。我々もその栄誉ある仏の軍団との自覚とプライドを持って生きていきたいものです。

 ちょうど昨日、拝読しました「四信五品抄」には次のようにしたためられています。

「問う汝(なんじ)が弟子一分の解(げ)無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何(いかん)、答う此(こ)の人は但(ただ)四味三教(しみさんきょう)の極位(ごくい)並びに爾前(にぜん)の円人(えんじん)に超過するのみに非(あら)ず将(は)た又真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(げん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり、請(こ)う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿(なか)れ進んで過去を尋(たず)ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連一恒(あにきれんいちごう)の者に非(あら)ずや退(しりぞ)いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可(べ)し天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如(ごと)し蔑如(べつじょ)すること勿れ蔑如(べつじょ)すること勿(なか)れ」


 たとえ外に見える姿は貧しき身なりとも、その内証は仏なのです。人が嘲笑(あざわら)おうとも、自分で自分を卑下することなど決してあってはなりません。いついかなる時も胸を張って、「私は仏なのだ、大長者なのだ」と心得ていくべきです。功徳があまり感じられないという人を見ていますと、自分を低くしたり自分はだめだと思っている人が案外、多いものです。自分は素晴らしいと思って讃嘆していくことはいい意味で「法華の慢」に通じます。

 人は一番苦しい時に本当の信心があるかどうか試されます。また苦しい時に本当の信心が出ます。試練を善き友として信心だけは一歩も引かないように、「逆境こそ私の本舞台」と胸を張り、前進していきたいと思います。







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