広布の大河に君ありて tori

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臨終只今

  はや5月も終わりになりました。この間、新年と思ったのにもう一年の半分が過ぎていきます。年を重ねるとほんと月日のたつのが早く感じられる。(笑)
 私も7月か9月には広布大誓堂に行かせていただくことになりました。(4月に行けたのですが、婦人部長が行きたい様子なので譲りました。)これからそれに向けて心と経費の準備もしっかりやっていきたいと思います。

 「人間革命」は一人の人間における総体革命だといえます。身体の健康から、脳内の浄化、人格の形成、宿命転換、はたまた社会での活動、それらすべてのことが唱題、折伏行を通じて自分の知らない間に醸成され、顕現していきます。その間、生命の奥底では仏界の湧現、仏の生命の開覚と「人間革命」のドラマがダイナミックに展開していきます。そして私たちは仏様から功徳と罰で「身に説法、心に説法」をいただきながら、日々、総体革命に向かって前進しているのです。

 信心の過程では病気が治ったり、お金儲けの功徳があっても、それらは永遠のものではないですし、誰しもやがて死ぬ時を迎えます。いい家が建った、お金が儲かったというのは、すごいことですが絶対のものではない・・・大恐慌や大地震が起きれば消えてなくなるかもしれない、まして死後に持っていくことなどできないものです。

  身と心、両面にわたり妙法で我が生命を打ち固めていく、永遠の幸福生命である「一生成仏」の功徳こそが真の功徳と言えます。その功徳は「生老病死」、「生死」を乗り越えることができると説かれます。御書には「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず」と仰せです。(椎地四郎殿御返事)それは「生も歓喜、死も歓喜」の世界です。

 「一生成仏」という目的地を知っていくのと、知らないでいくのでは大きな差があります。目的地を知らないでいくことは道に迷うもとになります。

 信心の功徳は命にいただくものです。命でがっちりつかむから、安心立命の生命となる。そうでないと信じきれないし、どこかにも持っていけないですよね。戸田先生の獄中の悟達も、池田先生の大境涯も全部、命で証拠をつかまれている・・体得されているというほかありません。戸田先生も「生死の問題に解決がついたので私は創価学会の会長になった」と申されました。

 私たちが体得した妙法の功徳は死後にも持っていけます・・・命に刻み込んだお題目と学会活動は我が命に大善となって、それを後生の幸福として来世にもっていくことになります。まさに御本尊様こそ冥途の衣装ですね。

 臨終のときには裸のこの身一つで閻魔えんまの前に立たねばなりません。お金も恋人もつれていくわけにはいかない。(笑)そこで閻魔の言うには「おお、あなたは本当に広宣流布のためによく戦われました。諸天からお話は良くうかがっております。ささ、どうぞこちらへ・・・大聖人様、日興上人様が霊山におられます。どうぞこちらの仏門へとお進みください。」

 そして心地よい美しい音楽が流れる中を、千仏が迎えに来て手を取ってくれる。綿のような軽やかさで、七宝で荘厳された大白牛車だいびゃくごしゃにのって仏界の宮殿へと入っていくのです。日蓮大聖人様の御尊顔など恐れ多くて拝せない・・・日興上人様が近くにこられ、「お疲れ様でした。来世はどのような境涯がお望みですか?お好きな境涯で生まれ変われますよ。」と聞いてくださる。「あのー、何不自由ない王様のような境涯で・・・あ、間違えました。できれば苦しい人を救って行きたいので、不幸な人と同じ境涯で、また大変な業を一つ二つ、つけていただいて、仏法のすごさを証明いたします」などと言ってるかもしれない。(笑)大変な業はほどほどにしても、かかるめでたき処に行きたいものですね。

 一方、日顕宗は「仏意仏勅の創価学会を見下し見捨て、ご供養を収奪し、同志を誹謗、まじめな信者をたぶらかし、学会を利用して法を食い物にしたその大罪は無間とも言うべきか、その罪、千劫経ても消し難し・・・地獄へ落ちて、阿鼻あびの大苦に沈むがよい」などと遠山の金さん風に言われ、獄卒達に引ったてられ、地の底へと暗い階段を下りていかねばならない。

 私などはその時が怖いので、この信心で我が生命を何としても染め抜いておかねばと考えています。やはり悠々と死を見下ろして、安祥として旅立つためにも、学会員として信心だけは真面目にやらねばと思うのです。まさに「まずは臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(妙法尼御前御返事)です。そのため仏意仏勅の学会にだけは弓を引いてはいけない・・・そう戒めています。

 死後の話ですので、この話が本当かどうか、みなさんも臨終のときにわかります。もし私より先に行かれた方がございましたら、どうかコメント欄よりお便りください。(笑)


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 信仰とは希望であり、勇気であり、歓喜であると思います。自分の心をみて、こうした心に満ちているか、それこそが信心のバロメーターです。戸田先生は「歓喜と感謝のないのは信心にあらず」と言われています。宝くじが当たって歓喜が出るのはそれは単に天界に過ぎない。本当の信心の歓喜は逆境や苦難の時こそ、あふれゆくものではないかと思います。

 かの楽聖ベートーベンも「苦悩をつきぬけて歓喜に至れ」と叫びました。歴史に名の残る人は言うことが違いますね。先の椎地四郎殿御返事にも「但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」と「難即安楽」の大確信を大聖人様は述べられています。

 私も今、自分はほんとに幸福者だ・・・そう思いながら、厳しい現実ですが、日々題目と共に生きています。「南無妙法蓮華経」だけあれば他には何もなくて大丈夫なのだ。必ずどんな苦難も打ち破っていける。その確信をもてばそこから誰人であれ、不思議と功徳があふれだします。
 

 田植えの終わった田んぼでは夜になるとカエルの大合唱が始まりました。これから梅雨に向かいますが、心はからりと晴れ渡る5月の空のようにありたいものです。6月はワールドカップサッカーもありますね。楽しみな方も多いと思いますが、私もサムライjapanを応援します。(笑)

 最後に勝利するは創価の師子たち・・・その因果を持った私たちです。大勝利の人生を目指して大悪を攻め、広布の一陣の風となって駆け抜けていきたいものです。


※大白牛車につきましては御書に「大白牛車御消息」というのがあります。
  臨終の姿につきましては 「松野殿御返事」(p1386~87)などに詳しく描写なされておられます。





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