広布の大河に君ありて tori

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下女のはらよりむまれたり



 創価学会によって、戦後、多くの人は妙法を知ることができました。貧しさと病と闘いながら宿命転換をかけ、折伏戦に打って出られた先輩諸氏の戦いがあって、私達も妙法をたもつことができました。その恩を決して忘れてはならないと思うとともに、やはりその恩には折伏をもって報いたいものです。私も会う人毎に常に歓喜で仏法を語りゆく自分となりました。

 一人の人を折伏すれば、その人がまた新たに一人を折伏をする。その小さな流れはやがて広布の大河、燎原の火となって、大民衆運動へと広がっていきます。本来、創価の世界は権力でも金の力でもない、歓喜に燃えて折伏に立ち上がった無名の庶民の怒涛の戦いが作り上げた清浄な世界であります。

 今、さも自分たちが正しいように語る反創価の脱会者達も、もとはと言えばみんな創価学会の折伏によって妙法を知り、戸田先生や池田先生の指導、著作によって仏法を学んだ人々に違いありません。

 私の近くの正宗寺院の僧侶も創価出身者であります。しかしながらその大恩を忘れ、自らの保身のために創価を誹謗する変節漢となり果てました。その姿は正義のカケラもない忘恩の徒の姿であり、信念無き畜生を見る思いであります。




若葉4_R





 私の好きな『十字御書』には「蓮はきよきもの泥よりいでたり、せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり」とあります。

 楊貴妃(ようきひ)が下女の腹から生まれたように、私達のような穢れ多き悩み多き凡夫に仏の生命はおわします。まさに「凡夫こそ仏である」・・・これが日蓮大聖人様の仏法の肝心、真髄ではないでしょうか?

 特定の権威や御本尊にひれ伏すことなど、もとより大聖人様の仏法ではありません。「竜の口の頸の座」にお供した四条金吾殿に「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし」(崇峻天皇御書1173P)と、大聖人様は仰せになられました。どんない苦しい時であってもこの御文を拝し、「地獄にあろうと大聖人様はここにいてくださる」との確信を燃え立たせてきました。

 どこまでも民衆と共に、民衆に寄り添い、苦悩、苦難を共にされるのが、仏様の慈悲であり振舞です。
民衆の集いである創価学会、信徒を見下し、僧侶が上などと申す根性は、およそ仏法とは縁遠い悪鬼の所業であり、日蓮仏法とは似ても似つかない邪教であります。

 知恵ある人もなき人も、平等に唱題行と「信」の力によって得道できる信心です。「愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり」(松野殿御返事1381P)聖人の唱える題目も我ら凡夫の唱える題目も、経の心に背くことがなければ変わりはないとまで仰せです。  

 特別な人などいない・・・大聖人様と私達、池田先生と私達は一つであり、師弟の道に生きることを覚悟するなら、仏様の力も先生の力も私達の生命に流れ通い漲(みなぎ)ります。それによって小我が大我に、凡夫が仏になることは、仏法の上での約束であり、100発100中、どなたもそうなることは間違いありません。私がそしてあなたが仏であることに絶対の確信を持たねばなりません。

 今日も「我仏なり、日蓮大聖人なり、池田先生なり」との大確信に燃えて、心一つに高らかに題目を唱え、広宣流布という聖業にともどもに参加し、偉大なる人間革命を成し遂げようではありませんか!





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信は道の源功徳の母

 



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 私は凡夫であり迷いの衆生ですが、迷いがあるということは何が正しいのかわかっていないということです。「大聖人様の仏法が正しいとわかってらっしゃるのでは?」といわれても、それは頭でわかっている、身体で少し知っているという程度であって、「まだまだこれからです」というほかありません。

 昔、宗門側の人達が数人そろって私の家へこられたことがありました。手には御書を持って、私に改心を迫るべくやってこられたのです。

 その時、何の御書かも忘れましたが、「この御文に照らして創価学会は間違っている。わかりますよね?」と相手は言うのです。御文といってもわずかに一、二行だったように思いますが、それで創価学会は間違っていると言い切るではありませんか?

 それで私は「御書をわかるというのは私には恐れ多いことであり、私はどこまでも御書を信じていく立場です。」と答えました。創価学会であれ、池田先生であれ、これまでわかろうというより信じてついてきたのです。それで長い年月をかけて心と心が「異体同心」となり、学会は正しい、先生は正しいと生命でわかったのです。生命でわかるともう誰からも何があっても崩されることはありません。

 なまじ頭のまわる方が陥るところは、何でも自分の智慧で浅薄にわかったと思いこむところではないかと思います。その人達も御書は多少拝していたかもしれません。しかし、その読み方は自分達の考えを正しいと思うために御書を利用する読み方であり、それ故に「切り文」になるのだと思いました。その心の底には「御書は読めている、わかっている」という驕慢があると私には見えました。

 戸田先生は「御書がわかったといったら増上慢だ、わかんないと言ったら謗法だ」と言われました。それを読んだときは「一体どうすりゃいいのさ・・・」と思ったものです。(笑)
今になって見ますと、わかるわからないではなく、「どこまでも信じていきなさい」「信解なのです」と言われているのだと思います。

 身体の悪い人にとって、身体の構造を知ることは目的ではなく、身体を治すことが目的です。それと同様に不幸の強い私は、ひたすら幸福になりたい。三世に崩れなき幸福を獲得することが目的なのであって、そのためには何よりも強い「信」が必要になります。その「信」を高めるための教学であり、理論であるはずです。私自身も内なる不信の命を打ち破るために長い時間がかかりました。

 有名な新池御書には「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」とあります。(p1443)竜女や修利槃特のように、この御文を証明する一人でありたいものです。

 「南無妙法蓮華経」の偉大さ、不思議さなど考えてもわかりません。みんなわからない中を信じて行く。だからこそ仏様も凡夫の「信」の志を尊くまたありがたく思われるのでしょう。その意味で我々にとって「信」こそがすべてだと言っても言い過ぎではありません。

 御本尊様に対して大確信を持つ・・・それができるようになって、私の生命も安心し、迷いの霧は晴れ、歓喜と感謝に溢れた力強いものとなりました。まさに「信」こそ「道の源」であり「功徳の母」です。強く信じる心があれば「信力」「行力」以外の策や智慧など不信の属物のようにさえ思えるものです。

 どんな状況であれ信心が強ければ、生命に勢いが出て立ち上がっていけます。そして「信」のみで我らは「蘇生の道」「成仏の道」に入れるのです。まさに「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(日寛上人)です。「自分はこの信があればもう大丈夫、人生に勝利するのだ!」とそう言える大信力が出れば即「勝利」の日々となります。

 娑婆世界を悠々自在に舞い、桜梅桃李の花を見事に咲かせるために、創価の皆様、ともに強い信力で前進して行きましょう!





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九州の皆様へ




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九州の震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

余震が長く続いています。こんな地震は珍しいように思います。
ご家族を亡くされた方はもちろんですが、家を失ったり、仕事を失ったり、
そして長期の避難所生活が予想されます方の心の苦しみは大変なものと推察します。

兵庫や東北がそうであるように、この大難に屈せず、
九州の皆様が強い心で立ち上がり、復興されますようお祈り申し上げます。

大悪が起きた今こそ、題目を唱え、胸中に太陽を昇らせて進まれますことを念願しています。

我々も池田先生の励ましに心を合わせて、この大悪を大善に変える祈りを、
九州の天地に、また内外問わず被災された方々のために送り続けていきます。







※昨日(4月20日付け)の公明新聞に公明党から義援金の呼びかけの記事が出ておりました。
どういう支援をしていいかわからない状況でもあると思います。
真心の支援で、私も力になれたらと思います。

(義援金の送付先につきましては20日付の公明新聞一面をご覧ください。
ネットでの案内は 公明の災害義援金口座
またお近くの議員や党員の方、党本部などにお問い合わせください。)











「私、信心がんばります。」



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 世の中にはふとしたことから知り合いになり、その人の人生に大きく関わるということがままあります。特に信心していますと、仏縁としか言いようのない出会いがあるものです。私とある婦人の親子の方もそんな不思議な御縁のように思います。

 その親子の方の家は古くからの老舗の和菓子屋さんでした。御主人が重い病に倒れられてから家業が傾き、お母さんが和菓子を作り、それを車に積んで行商をしておられました。実は最初の出会いもその和菓子を売りに、少し離れた私の住む地域を訪ねてこられたのがきっかけでした。

 お母さんも80近い高齢で慣れない行商だったのでしょう。最初、きれいだった新車が来るたびにあちこち傷だらけになっていきます。いつか事故でも起こされたら大変や・・・そう思って見ていました。

 何度か来られるうちに、いろいろと悩みを聞くことになり信心の話をしました。我が家の仏間に上がってもらい、すぐに一緒に題目を三唱しました。別の方からも勧められていたこともあり、その後しばらくして、御主人も含め一家で入会されたのです。

  入会してほどなく御主人が亡くなられ、和菓子屋も維持できなくなり、商売を畳んで親子二人で生活保護を受けられました。その娘さんも「不安神経症」(パニック障害系)があり、 ちゃんとした仕事にはつけなかったのです。そのような状況でしたので、信心にもなかなか確信がもてず、親戚兄弟からも見捨てられ、「悪いことが続くのはやっぱ、毘沙門さんを捨てたか らやろか?」などと当初は言っておられました。

 入会前後にはお金を借りていた知人男性から、使い走りや食事の世話までさせられていたそうです。私が出会った頃も、日に日にやつれていかにも薄幸という感じで、「不幸」という二文字がどこまでもどこまでもその親子を追いかけてくるように思いました。

 お母さんはパーキンソン病があり、娘さんもストレスがひどかったのか、入会後に乳がんを発症されました。幸いにも初期だったこともあり、少しの手術ですんだそうです。そして先日、一年たった検査で経過に異常なく、大丈夫ですとの結果をもらわれ、うれしさのあまり歓びの電話をしてこられました。

 ちょうど手元に東北の友へと先生が贈られたエッセーを読んだ後で、「一番苦しんだ人が一番幸せになる」との言葉を彼女に伝えました。電話の向こうで「ほんまですか?うれしいです。」と泣いておられました。

  そのあと、しばらくしてからメールが届き、そこに「私、信心がんばります。」と書いてあったのです。私は彼女の生命に幸福に向かっていこうとする「発心の灯」がともったように思いました。

 こういう人に本当に幸せになってほしい・・・そう思わずにはいられません。 「眷属」という言葉がありますが、私もこの方たちの支え、善知識になって仏法の世界にもっと導いていく使命があることを感じます。婦人部員で,地区も違うため、お会いしに行くこともあまりできませんが、電話でもメールでも励ますことはできます。

 「この発心が、一生成仏の大因となりますように!」そう深く祈りました。いつか暖かな春の陽射しの下、はじけるような笑顔で親子二人生きていってほしい・・・そんな日が来るのを想像しながら、私も寄り添っていきたいと思います。





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地獄にあって呵呵大笑




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何が起こっても、
それを楽しんでいく。
前向きの方向へと受け止めていく。
それが楽観主義であり、
その究極が信仰である。
楽観主義の人は強い。
いい方向へ、いい方向へと
自分でとらえ、
自分で「そうなる」
「そうなって見せる」と決めることである。
        池田SGI会長「四季の励まし」聖教新聞2016.1.17


 いい方向へいい方向へと自分は向かっていくのだ・・・「そうなる」「そうなって見せる」と決めきって生きて行けと言われています。それが妙法の軌道です。逆に「駄目かもしれない」は不信であり、魔の軌道です。どちらで信心しているか・・・仏様はそこを見ておられるに違いありません。

戸田先生は
「私は、かりに地獄に堕ちたとしても平気だよ。
 その時は、地獄の衆生を折伏して寂光土とするんだ。
 男が臆(おく)せば男ではない。どんな苦労も仏の力に変えられる。三障四魔が強いのは、むしろ信心で、必ず勝てるという証しなんだ。人生は強気でいけ!」と・・・(大白蓮華3月号巻頭言)

 胸のすくような力強い言葉です。一念と確信ですね。絶体絶命ともいえる苦境になると私などおろおろして、青くなって力を無くしていたものです。そこを楽観主義と強気で行けと言われるのですから、これは相当の胆力(たんりき)がいります。

 その胆力も信心から生まれます。そんなド根性が自分にあるかなと思っていましたが、崖っぷちに立って御本尊を拝めば、それは出るものです。だからこそピンチはチャンス、そこから痛快な逆転劇の始まりです。一度も崖っぷちに行かないような信心は逆につまらないものです。絶体絶命のところに行く人・・・その人こそ信心を体得できる条件を備えた「選ばれし勇者」ではないでしょうか?

 私の先輩は「何があろうと人は腹から笑えていれば大丈夫だ。」と言っておられました。私も信心のバロメーターとして、腹の底から笑えてる自分か、いつも確かめてやっています。

 御本尊の力を確信すること、そして学会と共に広宣流布のために戦うこと・・・この腹を決めきれば、そこから妙法の軌道に入れます。妙としか言いようのない不思議な力、安心、歓喜が顕われます。「地獄にあって呵呵大笑」できるのもまさに御本尊の偉大な力が出るからだと思います。

 しっかり信心しているなら、時には魔を睨みつけて「早く善神となって、妙法受持の者を守護しないか!サボってると仏に言いつけるぞ!」と叱り飛ばすぐらいの勢いを出していきたいですね。たくさん題目をあげていて諸天が動かないなんて、気の弱い題目をあげている証拠だと、私は自分に言い聞かせています。

「地獄や餓鬼の人々を救うために、俺は地獄にやってきたのだ。どんな地獄も仏界に転じて見せようじゃないか!」・・・そのぐらいの気構えで、地獄を楽しい寂光土に変えていく、大確信に満ちた男らしい信心をやりたいと思います。




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