2017
11.10

「池田先生についていくんだな」・・・

Category: 徒然の記


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 私は27歳で東京で入会、32歳で関西の片田舎にUターンしたのだが、家が真言だったこともあり、数年間は信心らしいことは何もできなかった。しかし、信心を捨てなかったのは、東京での5年間、私の命に信心を教えてくださった、ある先輩との出会いがあったからである。

 人との出会いが人生を決することを、その先輩との出会いによって私は学んだ。それは仏様が、私のあまりの不幸を憐れんで、天の配剤の如く、その人に巡り合わせてくださったものに違いない。その時は夢中でわからなかったが、時間が経ってみれば、やはり仏様の使いとして、その先輩は私の前に現れてくださったとしか思えない。

 その先輩が亡くなられる前に、私はご自宅を訪ねたことがあった。おそらく信心に行き詰まって、私は意を決して訪ねたのだろう。実は私はその人の前に出るととても怖くて、心臓がブルブルと震える自分をよく知っていた。その人の生命力もさることながら、自分のすべてを、それこそ三世まで見抜かれているようなそんな怖さがあり、その人の眼をまともに見ることができなかったのである。

 あとにも先にもそんな思いがしたのはその人だけである。その上、その方はいつも多くを語らない。その日も長い沈黙が続く中で、一言、「池田先生についていくんだな・・・」と言われた。それが先輩からいただいた、私への最後の言葉となったのだが、その時、その言葉は私の命の奥深く、楔となって突き刺さったのだと思う。その先輩が、私の命に、ここぞと打ち込んでくださったという方が正しいかもしれない。

 それから私が歩んだ道は、とても池田先生についていくというほど、立派なものではなかったが、それでも池田先生と学会を捨てずに歩み通してきた。今、その一念がいよいよ信念の巌となって私の命に根を下ろし、私は自分が広宣流布に生きる人だと覚悟するところまで、ようやくこれたのである。


 先頃の法戦では、協議会など通常の地区の会合のあと、本部の拠点に夜の9時から壮年が結集して3週間ほどの間、唱題会を行った。総県の幹部から分県、圏長、地区部長まで、早く来た人から横並びで、上下の隔てなく団子になっての唱題会である。

 毎夜、10名から15名が集い、力強く機関銃の如く題目が上がっていく。呼吸も乱れず、リズムもあってガンガンと上がっていくのだが、私はその中にいて、「ああ、この題目こそ関西の題目だ。池田先生に通じ、御本尊へと収まっていく題目だ・・・」そう感じていた。まさに唱題会の醍醐味を感じることができ、その魅力で私は片道20分かけて毎夜、その拠点へと通った。

 「池田先生についていくんだな」・・・私はそう命に楔を打って下さった先輩に、改めて感謝の思いをいだき、「なんとか池田先生についていっていますよ」と、己心で偲びながらお題目をあげていることもあった。

 その先輩にまみえた多くの友が、のちのち法華講へと去っていった。その命が私にもあると思われたのか、それとも創価の師弟に生きる私を見抜かれたのか・・・いずれにしろ、その方がかけて下さった最後の言葉に、私はこの人生を捧げてきたといえる。

 信心には善知識が必要である。私にとってはその方こそが最高の善知識の人であった。そして池田先生というさらなる善知識の師匠にめぐりあい、師弟の道を求道し、今日を生きている。それはきっと来世へと続く幸福の軌道であり、私のいくべき道なのだろう。

 その軌道に載ったことがわかれば、生命は安心し、自ずと歓喜と感謝の世界に入っていく・・・次はもちろん、多くの人に仏法を語らねばならない。その先輩もすごい題目の人だったが、自分の功徳は折伏でいただいたと仰っていた。

 怖かったその先輩の眼差しも、今は秋の陽差しのように優しいものに思える。来世もきっとその先輩に会うことだろう。その時に、「あの時の教えを守り、創価の道を全うしました」と胸を張って言えるように、しっかり精進していきたいと思う。







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2017
10.26

多勢に無勢

Category: 徒然の記

 今回の選挙では公明が6議席を減らす結果となった。残念に思っておられる方もいるかもしれないが、気を取り直して新たに出発していきたい。私も勝ち負けではなく、戦いきった法戦の功徳を感じている。功徳というのはいただいた人でないとわからないと思う。そしてそれによって確信を得ていくことも事実だ。功徳を得ない人が、本当の確信を抱くことはできない。

 ちなみに今回の選挙における我が地域の得票率は、自民が39、希望が17、立民16、公明11、維新9.5、共産6.5、その他1.5(いずれも%)という結果であった。公明の全国比例では福岡、沖縄がトップで17.3%、平均では13.3%となっている。衆議院では465議席のうち29議席であるから、議席獲得率は6.2%・・・得票率に比して半分以下と、厳しいものだ。

 法戦のさなかに思ったが、我々は実に「多勢に無勢」の中で戦っている。前の記事にも書いたが、私の同窓生100人の中で学会員はどうやら私だけということが判明した。これは極めて少ない例かもしれないが事実であり、広宣流布でいえば、私は99対1の立場に立っていると言える。

 我が地域の世帯数で見ても1100世帯に対して、学会の世帯は30世帯ほど、これは2.7%、さらに自治会では200世帯で学会員は3世帯と2%にも満たない。
田舎と違い、都市部に行けば10%とかあるのかもしれないが、それでも9対1である。

 つまり我々はきわめて少人数で、邪宗の信者や反創価など異なる思想の人、他党の支持者、無宗教家といった人々に折伏を働きかけ、公明支援をお願いしていく。「娑婆世界は第六天の魔王の所領」と言われる通り、時には魔軍の人たちと戦うこともあるだろう。政党の支持団体ということで見ても、連合や民商が世の中から攻撃されることはないが、創価学会は絶えず目の敵にされ、攻撃にさらされる。それもまた「仏と魔」の戦いが根底にあるからに違いない。

 そんな「多勢に無勢」の中を、学会員は健気に戦いゆく使命を帯びている。その構図を思うと、批判や反発、逆風が多くて当たり前だ。「創価は立派だね。」「公明は素晴らしい。」と褒められることなど稀なこと。世の中全体が9対1なのであるから、学会員は少数派であり、逆風の中を生きることを宿命づけられている。

 それは一見、苦しいとも言えるが、そのことがわかればどうということはない。北風の中を歩くから、人間強くなれる。「よっしゃ、創価が正しい、池田先生が正しいということを、自分の信心で一生をかけて証明しようじゃないか!」と逆に私のように燃える人もいるだろう。(笑)

 妙法に反対する人が多くいるから、我々は宿命転換と広宣流布ができる。誹謗中傷、悪口罵詈(あっくめり)する人たちのおかげで、自身の過去の謗法も消滅でき、功徳を増すことができるのだ。折伏に言って悪口を言われることは、自身の悪業を転換するための最高の手段となる。だから決して悪口する人たちを恨んだり、言われるからといって悔やんだりしてはならない。むしろ法のために悪から迫害を受けて、「発迹顕本」するのだと喜ぶのが本当だ。


 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(異体同心事1463P)・・・たとえ9対1であっても、その「1」が「異体同心」の一団であれば、悪を打ち破り、大事を成じることができると言われている。

 池田先生は誠実に日々仏法を実践する会員に対して、かつて次のようにスピーチされた。

 皆様は華やかではない。マスコミから脚光を浴びるわけでもない。しかし、どんな有名人よりも、戦争を起こすような指導者よりも、何千倍も大きな仕事をしている。人類の歴史転換の「底流」をつくっているからである。
「1999.7.3 記念本部幹部会のスピーチから)

 「人類の歴史転換の底流をつくっている。」との言葉をかみしめるなら、その偉大な使命に誇りをもち、焦ることなく、堂々と進んでいこう。謗法が充満する国土、地域であっても決して怖気づくことなく、粘り強く戦う中に、必ずや仏の生命は踊り出ていくものと思う。我が家でまた拠点で、人がどう言おうと黙々と唱題に励むのが学会員だ。その陰徳が必ず花開く時が来るのが、仏法の世界であり、大聖人様のお約束だと思う。

 賢人は、利(うるおい)や衰(おとろ)えなどの八風におかされない。ならば法戦の結果に一喜一憂することもなく、笑顔で今日から前進しよう。
 一段と爽やかな友好対話を綴りながら、明るく朗らかに次なる峰へと出発していきたいと思う。






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2017
10.03

ブラボーわが人生

Category: 徒然の記

 聖教新聞には、「ブラボーわが人生」と題して、信心のベテランの方の体験談の連載がある。いつも私はこの連載を楽しみにしている。それは人生の年輪、信心の年輪を重ねた人の言葉には、重みと温もりがあるからだ。そして山あり谷あり、波乱の体験に裏打ちされた、信心に対する確信が溢れている。そこにはいささかの迷いもない。

 今朝もまた九十二歳のおばあちゃんが出ておられたが、「おばあちゃん」と呼ばれることをよしとしない、青年の心の人である。

「食べ物はろくにねえ、借金がある。辛くって先輩に泣く泣く相談したんだ。「山田さん、1日や2日寝なくったって死なないんだよ。題目あげなさい」。線香を何本燃やしたかわからない。

「だけども、たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ。」

「結局、苦労がなけりゃあ、信心もわかんねえさ。池田先生とめぐりあえばこそ、今の幸せがあんだもん。」・・・


 次々と確信の言葉がほとばしりでる。まさに市井の庶民の幸福博士、哲学博士だと思う。

 この方は苦労が大事だと教えてくださっている。仏法は頭の先の方で、少し考えたぐらいのことでは到底わからない。現場でまた生活で、辛酸を舐めながら、苦労しなければならないということだろう。仏法は智解ではなく信解だと説かれる。自分の知恵で観念観法したところでしれたものだ。かえって仏法を小さく考えるぐらいがオチなのだろう。

 そのことを思えば学会はありがたい。次々と戦いのステージがやって来る。昨日まで寝ていた人も、新しい戦いに参戦して陣列に加われば、そこからすぐに境涯は開いていく。現当二世なのだから、過去は問わない。

 法戦であっても、やりきらないと、本当の功徳はわからないと思う。なんでも中途半端では掴みきれない。戦いきった人だけが、厳たる功徳に浴せる。やらない人の批判には現証が伴わない。私は、外野から批判をする人より、先頭に立って、背中を見せて戦う人を見ていたい。第一、気持ちがいい。私もそういう人であろうと、自分に言い聞かせている。

 先日は、地方選の候補夫妻と、三十件ばかり、内外のお宅を訪ねて歩いた。残念なことに、昔に比べて、塩をまかれるようなこともない。どなたも友好的である。夜になって帰宅したが、戦いきった一日は、気持ちも清々しい。ご飯も美味しい。(笑)「御本尊様、池田先生、今日も戦って参りました。」そう仏前に端座して報告申し上げる。

 祈祷抄には、「行者は必ず不実なりとも・知恵はおろかなりとも・身は不浄なりとも・戎徳は備えずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ」と仰せである。

 ありのままの汚れた自分でいいと仰せである。御本尊を強く信じて妙法を唱えていけば、それで幸福になれる信心だ。難しいことなど何もない。そうしない人があれこれと迷うのだろう。仏法を根本に真面目に生活と取り組み、学会同志と連帯し、師弟不二で実践すれば、それが幸福への最高の道である。

 題目を高らかに唱えれば、体内の熱い血が燃える。そして前進する勇気と希望が湧く。逆境にあって、やる気と負けじ魂が出る。そしてそこから痛快な逆転劇が始まる。

 焦らなくとも、不安に思わなくても、必ず最後は信心しきった人が、学会員が勝つのだから、心配は無用だ。「僕が仏?最高だなあ」「君も仏、未来は明るいねえ」そう互いを励まし朗らかに生きれば、体の細胞も自然と若返り、健康になっていく。明るい心になれば、不幸も寄り付かない。そこから勝利の道が開いていくに違いない。

 この方の言われるとおり・・・「たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ」

 今日はこの素晴らしい言葉を味わいながら、終わりにしよう。






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2017
08.04

友の病に同苦して

Category: 徒然の記
 

 私が学会で信心する理由の一つに、より多くの同志と交われるということがある。「汝蘭室の友に交わりて麻畝の性と成る」(御書31P )との御聖訓通り、多くの人と交われば交わるほど、磨かれ、触発を受け、学びゆくことが自然とできるように思う。これは自己の成長にとって、一人ではできない大事な要素ではないかと思う。

 私も元来、人との交わりが苦手な方なのだが、最近は役職も受け、多くの同志と積極的に交わり、時には励ます機会も多くなってきた。

 人生経験豊富な壮年の方々との交流も、味わいがあり私は好きである。とりわけ病気や経済面などで苦労してきた人ほど、人にやさしくぬくもりを感じることができる・・・これも人生の妙味というものではないだろうか。

 地元の地域にあっても、組織を超えて励ます人もいれば、またこのネットを通じて知り合いになった方を励ます機会もある。相手に適切な指導など簡単ではないが、私なりに一生懸命、誠実に応えたいと思う。誰かの力になれるほど、自分を高めゆく作業もないに違いない。

 私の地区ではないが、私には一人の婦人との交流がある。別の方の勧めで、3年ほど前にお母さんと共に入会されたのだが、私も同時進行で仏法対話をしていた。そのこともあり、むしろ入会後に、何かと連絡をいただくようになった。私は誰に頼まれたわけでもなく、その方とお付き合いしていこうと決めたのだが、それはその親子が今まで私が出会った中でも、とりわけ幸福から見放された親子であったからである。

 乳がんからうつ病、心臓の病と、病気のデパートといってもいいぐらいたくさんの病を持っておられ、、そのため仕事にもつけず、わずかな生活保護で、年老いた母親の介護をしながら生きておられる。そのお母さんもパーキンソン病である。主人がなくなってから家業が傾き、親族からも見放され、知人からも借金を理由にパワハラを受けられたと聞いた。

 先日いただいたメールには次のように記してあった。

 「こんにちは。検査でいろいろな病状が出て落ち込んでいます。一日の3分の1が不整脈で.心室からも鼓動、徐脈や頻脈の症状があり、脳に酸素が行かず、時には失神の危険もあるそうです。ほかにもエコーした時に、「僧帽弁逸脱症」といって、生まれながら、心臓の弁がずれていて、血液の一部が逆流し、そのため心臓が苦しむそうです。
 心臓が苦しい時は、テレビの音も心臓にこたえてみれないときもあります。夜は睡眠薬で寝ます。
 勤行、お題目を唱えて治療していきます。いつも祈っていただいて本当にありがとうございます。」とあった。また私の奥さんの病後の心配もいつも添えてくださっている。

 信心して3年、まださほどの確信もない中を、おそらく「死」の影を感じて不安になることもあるのだと思う。私は絶対にこの方に、病に負けてもらいたくない・・・生きる喜びを知ってほしいと強く願わずにはいられない。そのことを御本尊に祈るばかりである。

 仏法には「眷属」という言葉がある。もちろん彼女と過去に何があったか、私にはわからない。しかし、縁があったということは偶然ではないと説かれる。私の妹であったか、娘であったか、それともご近所の人であったか・・・いずれにせよ、その人と出会い、救いたいという一念が、私の命にもあって、それでこの親子に会うべくして会ったのだと思う。そうであるならこの時を逃してはならない・・・必ず彼女の力になってあげたいと思う。

  「慈悲」とは「抜苦与楽」と説かれる。相手に同苦し、「何とか彼女の苦しみを抜いて、楽しい人生にしてあげたい」。その慈悲の一念の題目はきっと彼女の胸中の仏界に感応し、仏力、法力となって、宿命打開の道を照らしゆくことを信じたい。

 思えば慈悲深い仏様を胸中に抱けることはありがたいことである。この仏様と一体となって、また水魚の思いで祈りゆくとき、不可能を可能にしていく力が湧き出るのである。 その確信を彼女にも伝え、勇気と希望をいつも届けたいと思う。





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2017
07.25

あの日の分かれ道

Category: 徒然の記
 先日は、わが県で青年大会が開催され、私も同志の方々と、観覧で参加してきました。新しい若い力による溌剌とした演目、苦難から立ち上がり、現実で勝利していく青年の体験等、大変、スピードと勢いのある大会でした。特に、県知事や各界の来賓も招待して、外に開かれた大会であったことも良かったと思います。

 見終わった後、命に新しい活力が湧くのを覚え、同志と共に「良かったなあ」と、その感動に浸りながら帰路につきました。



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 信心の功徳は生命の変革であり、「薄紙をはぐように」と表現されますが、本当に少しずつ生命の闇が晴れていく。その分、身も心も軽く、さわやかな風が命に吹き渡ります。

 この学会の信心の素晴らしさを、知らずに去っていった人の話を聞くたび、私はやはり淋しく思います。27歳で学会に入りましたが、そのころ、私と一番仲のよかった友人も、宗門問題で法華講へと去っていきました。もう20年ほど音信不通ですが、あの頃の笑顔が彼にあるだろうかと、時折、心配です。 彼が最後に「自分は大御本尊についていくよ」とポツリと言った言葉が今も耳から離れません。それは一瞬の会話でしたが、私には永遠の別れのように感じました。2度と彼が学会に戻ることはないように感じたからです。

 あの時、学会が正しいと直感した私、宗門が正しいと判断した彼・・・まさに運命の分かれ道がそこにあり、双方とも後戻りできないほど遠くまで離れました。そして宗門問題を契機に、私は学会に自分を懸けて今日までやってきました。
理屈ではなく、その活動と体験から、私は学会の素晴らしさを身で知り、人から何を言われようと決して崩れない命の財、幸福の土台を手に入れたと思います。その選択に、自分の身の福運を深く感じるものです。

 信心だけは休むことなく、学会で通すことができた・・・これが私の生命の勲章であり、御本尊様の照覧は確かであろうと確信します。この世を去る時、閻魔の前に立っても「学会員でやり通しました」と胸を張って言いたいと、その時が今から楽しみでもあります。


 日蓮大聖人様の御本尊は一切衆生のために認められたものです。宗門に相伝されたとはいえ、一宗にとどまるべきものではありません。人間の生命に大宇宙の営みに、躍動しているのが妙法です。大聖人様の御心が、一切衆生の口に妙法を唱えさせたいとの御心であるなら、一人一人の学会員の胸に喜んで、御本尊様をかけてくださることでしょう。

 「大御本尊を拝さなければ、血脈も、功徳もないよ」などという、そんな冷たい料簡でないことだけは確かだと思います。

 「会則の改正」をもって、学会は独立して心機一転、新しく船出しました。「創価丸」に乗り合わせた我らはきれいさっぱり、過去のしがらみから解放され、もう過去への執着もなければ、後悔もない・・・新しい心で、新時代へ、未来に向かって信心に励んでいけます。先生のご配慮で、本当に素晴らしい時代が来たことを、日々、感謝しています。

 学会もしばらくは夏季友好週間となり、活動もあまりありませんが、自身の充電期間ととらえ、また日ごろ会えなかった人との友好を深めながら、さらなる仏法対話の道を、開いていきたいと思います。






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