2018
01.05

大王の膳

Category: 徒然の記

 皆様、新年あけましておめでとうございます

 4日から聖教配達が開始され、気持も新たに出発したが、山も雪を抱き道も凍てており、車も足元も滑りがちの状況であった。悪路の上、今月は啓蒙も大変多く、新規の配達でミスが出たりと、初日は1時間半もかかってしまった。

 大変な配達をしんどいと愚痴にするか、それとも法のために尽くせるといよいよ歓喜を増すか・・・一念はまことに微妙だ。私も厳寒の配達を歓喜に変えて、無事故優先で走破していきたい。

 1日の新年勤行会には、94歳になる母を伴って参加した。母は少し足元がおぼつかないが、母を連れての勤行会もこれから先、そう何度も行けないかもしれない。この歳の母を新年勤行会に連れて行けるのだから、私は幸福と言わねばなるまい。父親が早逝であった分、母には少しでも長生きをしてほしい。



101q.jpg




 「正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり」 「十字御書」

 最近は新年がくると私はこの「十字御書」を拝する。仏前を清め、正月のお供えをし、清らかな心で御本尊様と新春を迎えられることは、何とありがたくうれしいことだろうか。

 「十字御書」の中には次なる一節もある。「我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候」・・・

 私は「真言亡家」のままに親不孝ばかりしてきたので、この御文は身に沁みるし、耳にも痛い。(笑)それ故、今になって多少なりとも罪滅ぼしをしたいのかもしれない。2日から家内と子供が実家へ行ったこともあり、すき焼きやお刺身など母の好物を揃え、久々二人で正月を過ごした。私は一人暮らしが長かったこともあり、調理や皿洗いはお手の物だ。(笑)

 幸福になるための要素として親孝行ということはとても大事なことだと思う。池田先生も親孝行ということを本当によく指導される。また世の中で何かを成す人はたいてい親孝行者だ。スポーツをやる高校生でも勝利の後に、「誰に報告したいですか?」と問われ、「ここまで育ててくれたお母さんに」などと答えるのを見ると、それだけで「うーん、なんて素晴らしい」と感心させられる。私は自分の不幸を省みた時、「嗚呼、俺のような不孝者ではそう簡単に幸福などになれるものではない」とよく思ったものだ。

 そんな私があそこを治し、ここも治しと歴劫修行などやった日にはとても今世で間に合わない・・・仏法は「親不孝の地獄界」を「貧しき餓鬼界」を即座に「心豊かな菩薩界・仏界」へと開くことが出来る信心だ。その上、我が身が仏になれば、目連尊者の如く餓鬼界の母を救い仏に成すこともできる。親不孝者にとってはこの信心以外に、もはや選択の余地はない。(笑)
 
 私が信心で受ける功徳は、父母も同時に受けると説かれる。信心に励み功徳を積めば、両親の罪障消滅も叶えてあげることが出来る。親の根本的な苦を抜いてあげられるのだから、それに勝る親孝行があるだろうか?「大聖人様、私が受ける功徳は余すところなく、父母にも譲り給え」と、愚か者の息子は日々祈っている。

 お陰で大変穏やかな正月で、こちらも唱題をしては仏法の本を読み、また唱題しては昼寝をしたりと、(笑)ゆっくりと体を休めることができた。さほど見たいテレビもなし、お酒も美味しくなくなった・・・御本尊様と池田先生の本と、お茶とみかんでもあれば、それはわたしにとって「大王の膳」となる。その「大王の膳」を前にして私の三が日はゆるゆると過ぎていった。

 いよいよ今日から組織での会合も始まり、私は地区代表で決意発表をさせてもらう。今日からギアを切り替え、「栄光の年」の学会活動へと朗らかに出発していこう!

 それでは皆様にとって、信心倍増の善き一年となりますように・・・
本年もどうぞよろしくお願い致します。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



Comment:6  Trackback:0
2017
12.28

皆様、良いお年を!

Category: 徒然の記


 今月届いた聖教「SGIグラフ」1月号には、創価三代の会長先生の写真がとじ込みの付録でついている。特に牧口先生のお写真は私もいいものがなく、この機会にと思い、いつもとは別に2冊を注文した。

 牧口先生、戸田先生のあの獄中の大闘争を、私のようなものに語る資格はない。その代り、その師弟に連なり、戸田先生にお仕えし抜かれた池田先生に随順していくことが、私にとっては三代会長先生へのせめてもの報恩だと思っている。

 とじ込み写真の次のページには、昭和31年日大グランドで開催された「若人の祭典」で、グランドを歩かれる戸田先生・池田先生のお写真が載っている。大股で歩むお二人の姿には圧倒される力強さがあり、私はしばし見とれた。

 そこには100年後200年後を見据えたような、どんな魔軍が前に立ちはだかろうと、ものともせず敢然と進みいかんとする師弟の姿と絆がある。その写真の添え書きには池田先生の「新・人間革命22巻」「波濤の章」から次の一節が引かれている。

 「戸田先生にお仕えし、お守りし、共に広宣流布に戦う中で、自分の地涌の菩薩の使命を知りました。創価学会を貫く信仰の生命線は、この師弟にあります。どうか諸君も、生涯、師弟の道を貫き、この世に生まれた自身の崇高な使命を知り、堂々たる師子の人生を歩み抜いて頂きたいのであります。」・・・

 「生涯、師弟の道を貫くこと」、「この世に生まれた自身の崇高な使命を知ること」、「堂々たる師子の人生を歩むこと」・・・それをやりなさいと池田先生は言われている。先生自身も戸田先生と戦う中で、「地涌の菩薩の使命を知りました」と仰せである。

 何の活動もしないで、頭だけで仏法を考えるような、インテリや臆病者であってはならないと、私は常々思う。不信と謗法が充満する現場に一人立つ心を持って飛び込み、同志の方と異体同心の団結を組み、悩める人のため、広布のために戦かってこそ、池田先生の弟子と言えるのだと思う。

 その意味で私もまだまだ・・・来年こそは唱題を根本に、自分に勝つ戦いをし、折伏に生活に地域で実証を勝ち取る戦いをしなければならない。

 本当の幸福とは自身の崇高な使命を知り、それに生きることだとは言えないだろうか?自分が何のために生まれてきたか・・・その深い意味を知る人はきっと少ないだろう。お金でも名誉でも、まして贅沢な衣食住の生活でもない、相対的幸福とは全く別次元の生命の究極の実体・・・仏という絶対的存在を悟り、その生命に生きる人が本当の幸福者であり、真の哲学者だと私は信じている。

 信心しながら自身の宿業に深く悩む人もおられることだろう。また組織や活動、人間関係に悩まれる人もいるだろう。しかし、全ては広宣流布という崇高な目的に生きる事によって、我が仏の生命を輝かす燃料、薪となっていく・・・悩みが重く深い人ほど仏法の世界に来れば、選ばれし使命の人として輝ける。

 さあ、来年は「栄光の年」である。同志の方と共に力強い前進を誓いあって、私も出発をしていきたい。

 この一年、当ブログに訪問くださった皆様、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
どうか皆さんにとって来年が良い年でありますように・・・そうご祈念申し上げ、今年はこれにて終しまいです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ




Comment:2  Trackback:0
2017
12.18

私の関西魂

Category: 徒然の記


 昨日は、午後から同志の方を訪問し、カレンダーや新年勤行会の入場券を手渡しながら地区を廻った。年賀状の準備や家の整理などもあり、この時期の休日は慌ただしい。そんな中、この一年を振り返り、また明年への決意を固めゆくことも、私にとっては希望に満ちた楽しい作業だ。
 
 特に今年は自分の生命にまた一つ、大きな変毒為薬が起こったことを感じている。生来、悩み症とも言える私が、その苦しみが、根底から生きる希望や歓喜へと転換した。これからも様々悩みは起こるにしても、それに負けずに歓喜の心で生きていくだろうと思う。「煩悩即菩提」の法理を、わずかなりともこの身で味わえたことは、とてもありがたいことだ。



asayake2.jpg



 その日の家庭訪問が終わり一息ついていると、総県長と圏長が連れ立って、遠いところを訪ねてこられた。聞けば朝から圏内の拠点提供の家庭などを回られていたようだ。本当に立派なことだと思う。時間を作り足を運ぶことがいかに大切か・・・ネットやメールなどは便利かもしれないが、やはり顔を合わせない、足を運ばない活動はどこか浅薄で物足りない。せめて声を交わすこと、また膝を交えて話すことに私も努めたい。その意味でも、やはり現場、地域の活動に徹するのが一番大事だと思っている。

 総県長、圏長ともに偉ぶったところのない、とてもおおらかな方である。この方々を見ていると、学会の幹部にとって一番大切なことは、権威臭、官僚臭がないことではないかと思う。そういう人とは兄弟のように胸襟を開いて対話ができ、笑顔が絶えない。自ずと人望も集まる。

 今年の法戦などを振り返り、関西の勝利についても話題になった。ある議員のスキャンダルで魔が競うスタートとなったが、関西は負けなかった・・・何故か?その原因は関西の「負けじ魂」と「団結」にあったと言われた。ある地域が危ないと聞くと、全関西がその地域に結集し、交流をし、友人知人に総当りする。その勢い、パワーがいつも常在戦場の如く充満しているのが関西であり、「関西は一つ」との思いが、多くの会員にみなぎっているからだとも言われた。私も全くその通りだと思う。

 私は関西の田舎に居住しているが、組織にあっても居心地がいい。ノルマだとか義務とか、押し付けられることを関西人は嫌い、本音を好む。国やお上の言いなりには動かないという反骨精神もある。その代わり、意気や情で感じれば、損得抜きで骨身を惜しまず動く。「先生に喜んでもらいたい」との思いが溢れていると思う。

 関西は先生の手作りの組織であり、そのぬくもりと闘魂の魂が流れ通う地域だ。関西だけで6人もの議員を輩出できる底力というのは、やはりそこに本当の「師弟」があるからであり、本気で戦う人がいかに多いかということではないだろうか。

 若くして上京し、落ちぶれて学会に拾われた私も、すでにユーターンした関西での生活が30年を超えた。思うにならない信心ではあったが、御本尊様への確信をつかみ、いつしか体内から「関西魂」の血が湧いて流れる人間になった。

 阪神淡路大震災で、全てが一瞬に崩壊する姿を、目の当たりにされたこの総県長は、「牧口先生は罰論から仏法を広められた。戸田先生は病人と貧乏人をなくさんと、功徳論をもってかかられた。そして池田先生は人間主義の生命論を持って世界へと飛び込んでいかれた。あの大震災を見た時、信心はお金や物ではない、何があっても壊れない生命の宝を求めていかねばならないのだと思った。」と話をしてくださった。本当にわかってらっしゃる方だと、私も思わず嬉しくなった。こういう長のもとでは、活動にも歓喜の輪が広がるものと思う。

 「私は生命がこう革命しました」「こんなに明るく楽しく、生きることが嬉しいのです」と、生命内奥の「心の財」の功徳を語っていく時代が、今、まさに到来している。それは学会の信心に体当たりでぶつかっていく人だけが得られる功徳だと、私は体験を通し信じる。

  自分が変わることがこの信心の眼目だ。それなくして、理屈だけでは何も変わらない。まして人も環境も変えることはできない・・・それが「依正不二」の原理でもある。
 ならばどこまでも自身の人間革命を追い求め、歓喜と感謝をもって、「師弟の大道」を歩む人が正道の人だと思う。

 さあ、今日の協議会、財務、そして週末の唱題会を持ってこの一年の組織活動がすべて終わる。気を緩めることなく、地区の皆さんと有終の美を飾る戦いで、この一年を締めくくりたいと思う。


※12.19に記事を少し修正いたしました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ




Comment:8  Trackback:0
2017
11.10

「池田先生についていくんだな」・・・

Category: 徒然の記


IMG_7214a.jpg
       



 私は27歳で東京で入会、32歳で関西の片田舎にUターンしたのだが、家が真言だったこともあり、数年間は信心らしいことは何もできなかった。しかし、信心を捨てなかったのは、東京での5年間、私の命に信心を教えてくださった、ある先輩との出会いがあったからである。

 人との出会いが人生を決することを、その先輩との出会いによって私は学んだ。それは仏様が、私のあまりの不幸を憐れんで、天の配剤の如く、その人に巡り合わせてくださったものに違いない。その時は夢中でわからなかったが、時間が経ってみれば、やはり仏様の使いとして、その先輩は私の前に現れてくださったとしか思えない。

 その先輩が亡くなられる前に、私はご自宅を訪ねたことがあった。おそらく信心に行き詰まって、私は意を決して訪ねたのだろう。実は私はその人の前に出るととても怖くて、心臓がブルブルと震える自分をよく知っていた。その人の生命力もさることながら、自分のすべてを、それこそ三世まで見抜かれているようなそんな怖さがあり、その人の眼をまともに見ることができなかったのである。

 あとにも先にもそんな思いがしたのはその人だけである。その上、その方はいつも多くを語らない。その日も長い沈黙が続く中で、一言、「池田先生についていくんだな・・・」と言われた。それが先輩からいただいた、私への最後の言葉となったのだが、その時、その言葉は私の命の奥深く、楔となって突き刺さったのだと思う。その先輩が、私の命に、ここぞと打ち込んでくださったという方が正しいかもしれない。

 それから私が歩んだ道は、とても池田先生についていくというほど、立派なものではなかったが、それでも池田先生と学会を捨てずに歩み通してきた。今、その一念がいよいよ信念の巌となって私の命に根を下ろし、私は自分が広宣流布に生きる人だと覚悟するところまで、ようやくこれたのである。


 先頃の法戦では、協議会など通常の地区の会合のあと、本部の拠点に夜の9時から壮年が結集して3週間ほどの間、唱題会を行った。総県の幹部から分県、圏長、地区部長まで、早く来た人から横並びで、上下の隔てなく団子になっての唱題会である。

 毎夜、10名から15名が集い、力強く機関銃の如く題目が上がっていく。呼吸も乱れず、リズムもあってガンガンと上がっていくのだが、私はその中にいて、「ああ、この題目こそ関西の題目だ。池田先生に通じ、御本尊へと収まっていく題目だ・・・」そう感じていた。まさに唱題会の醍醐味を感じることができ、その魅力で私は片道20分かけて毎夜、その拠点へと通った。

 「池田先生についていくんだな」・・・私はそう命に楔を打って下さった先輩に、改めて感謝の思いをいだき、「なんとか池田先生についていっていますよ」と、己心で偲びながらお題目をあげていることもあった。

 その先輩にまみえた多くの友が、のちのち法華講へと去っていった。その命が私にもあると思われたのか、それとも創価の師弟に生きる私を見抜かれたのか・・・いずれにしろ、その方がかけて下さった最後の言葉に、私はこの人生を捧げてきたといえる。

 信心には善知識が必要である。私にとってはその方こそが最高の善知識の人であった。そして池田先生というさらなる善知識の師匠にめぐりあい、師弟の道を求道し、今日を生きている。それはきっと来世へと続く幸福の軌道であり、私のいくべき道なのだろう。

 その軌道に載ったことがわかれば、生命は安心し、自ずと歓喜と感謝の世界に入っていく・・・次はもちろん、多くの人に仏法を語らねばならない。その先輩もすごい題目の人だったが、自分の功徳は折伏でいただいたと仰っていた。

 怖かったその先輩の眼差しも、今は秋の陽差しのように優しいものに思える。来世もきっとその先輩に会うことだろう。その時に、「あの時の教えを守り、創価の道を全うしました」と胸を張って言えるように、しっかり精進していきたいと思う。







にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ




Comment:2  Trackback:0
2017
10.26

多勢に無勢

Category: 徒然の記

 今回の選挙では公明が6議席を減らす結果となった。残念に思っておられる方もいるかもしれないが、気を取り直して新たに出発していきたい。私も勝ち負けではなく、戦いきった法戦の功徳を感じている。功徳というのはいただいた人でないとわからないと思う。そしてそれによって確信を得ていくことも事実だ。功徳を得ない人が、本当の確信を抱くことはできない。

 ちなみに今回の選挙における我が地域の得票率は、自民が39、希望が17、立民16、公明11、維新9.5、共産6.5、その他1.5(いずれも%)という結果であった。公明の全国比例では福岡、沖縄がトップで17.3%、平均では13.3%となっている。衆議院では465議席のうち29議席であるから、議席獲得率は6.2%・・・得票率に比して半分以下と、厳しいものだ。

 法戦のさなかに思ったが、我々は実に「多勢に無勢」の中で戦っている。前の記事にも書いたが、私の同窓生100人の中で学会員はどうやら私だけということが判明した。これは極めて少ない例かもしれないが事実であり、広宣流布でいえば、私は99対1の立場に立っていると言える。

 我が地域の世帯数で見ても1100世帯に対して、学会の世帯は30世帯ほど、これは2.7%、さらに自治会では200世帯で学会員は3世帯と2%にも満たない。
田舎と違い、都市部に行けば10%とかあるのかもしれないが、それでも9対1である。

 つまり我々はきわめて少人数で、邪宗の信者や反創価など異なる思想の人、他党の支持者、無宗教家といった人々に折伏を働きかけ、公明支援をお願いしていく。「娑婆世界は第六天の魔王の所領」と言われる通り、時には魔軍の人たちと戦うこともあるだろう。政党の支持団体ということで見ても、連合や民商が世の中から攻撃されることはないが、創価学会は絶えず目の敵にされ、攻撃にさらされる。それもまた「仏と魔」の戦いが根底にあるからに違いない。

 そんな「多勢に無勢」の中を、学会員は健気に戦いゆく使命を帯びている。その構図を思うと、批判や反発、逆風が多くて当たり前だ。「創価は立派だね。」「公明は素晴らしい。」と褒められることなど稀なこと。世の中全体が9対1なのであるから、学会員は少数派であり、逆風の中を生きることを宿命づけられている。

 それは一見、苦しいとも言えるが、そのことがわかればどうということはない。北風の中を歩くから、人間強くなれる。「よっしゃ、創価が正しい、池田先生が正しいということを、自分の信心で一生をかけて証明しようじゃないか!」と逆に私のように燃える人もいるだろう。(笑)

 妙法に反対する人が多くいるから、我々は宿命転換と広宣流布ができる。誹謗中傷、悪口罵詈(あっくめり)する人たちのおかげで、自身の過去の謗法も消滅でき、功徳を増すことができるのだ。折伏に言って悪口を言われることは、自身の悪業を転換するための最高の手段となる。だから決して悪口する人たちを恨んだり、言われるからといって悔やんだりしてはならない。むしろ法のために悪から迫害を受けて、「発迹顕本」するのだと喜ぶのが本当だ。


 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(異体同心事1463P)・・・たとえ9対1であっても、その「1」が「異体同心」の一団であれば、悪を打ち破り、大事を成じることができると言われている。

 池田先生は誠実に日々仏法を実践する会員に対して、かつて次のようにスピーチされた。

 皆様は華やかではない。マスコミから脚光を浴びるわけでもない。しかし、どんな有名人よりも、戦争を起こすような指導者よりも、何千倍も大きな仕事をしている。人類の歴史転換の「底流」をつくっているからである。
「1999.7.3 記念本部幹部会のスピーチから)

 「人類の歴史転換の底流をつくっている。」との言葉をかみしめるなら、その偉大な使命に誇りをもち、焦ることなく、堂々と進んでいこう。謗法が充満する国土、地域であっても決して怖気づくことなく、粘り強く戦う中に、必ずや仏の生命は踊り出ていくものと思う。我が家でまた拠点で、人がどう言おうと黙々と唱題に励むのが学会員だ。その陰徳が必ず花開く時が来るのが、仏法の世界であり、大聖人様のお約束だと思う。

 賢人は、利(うるおい)や衰(おとろ)えなどの八風におかされない。ならば法戦の結果に一喜一憂することもなく、笑顔で今日から前進しよう。
 一段と爽やかな友好対話を綴りながら、明るく朗らかに次なる峰へと出発していきたいと思う。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



Comment:8  Trackback:0
back-to-top