2017
10.03

ブラボーわが人生

Category: 徒然の記

 聖教新聞には、「ブラボーわが人生」と題して、信心のベテランの方の体験談の連載がある。いつも私はこの連載を楽しみにしている。それは人生の年輪、信心の年輪を重ねた人の言葉には、重みと温もりがあるからだ。そして山あり谷あり、波乱の体験に裏打ちされた、信心に対する確信が溢れている。そこにはいささかの迷いもない。

 今朝もまた九十二歳のおばあちゃんが出ておられたが、「おばあちゃん」と呼ばれることをよしとしない、青年の心の人である。

「食べ物はろくにねえ、借金がある。辛くって先輩に泣く泣く相談したんだ。「山田さん、1日や2日寝なくったって死なないんだよ。題目あげなさい」。線香を何本燃やしたかわからない。

「だけども、たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ。」

「結局、苦労がなけりゃあ、信心もわかんねえさ。池田先生とめぐりあえばこそ、今の幸せがあんだもん。」・・・


 次々と確信の言葉がほとばしりでる。まさに市井の庶民の幸福博士、哲学博士だと思う。

 この方は苦労が大事だと教えてくださっている。仏法は頭の先の方で、少し考えたぐらいのことでは到底わからない。現場でまた生活で、辛酸を舐めながら、苦労しなければならないということだろう。仏法は智解ではなく信解だと説かれる。自分の知恵で観念観法したところでしれたものだ。かえって仏法を小さく考えるぐらいがオチなのだろう。

 そのことを思えば学会はありがたい。次々と戦いのステージがやって来る。昨日まで寝ていた人も、新しい戦いに参戦して陣列に加われば、そこからすぐに境涯は開いていく。現当二世なのだから、過去は問わない。

 法戦であっても、やりきらないと、本当の功徳はわからないと思う。なんでも中途半端では掴みきれない。戦いきった人だけが、厳たる功徳に浴せる。やらない人の批判には現証が伴わない。私は、外野から批判をする人より、先頭に立って、背中を見せて戦う人を見ていたい。第一、気持ちがいい。私もそういう人であろうと、自分に言い聞かせている。

 先日は、地方選の候補夫妻と、三十件ばかり、内外のお宅を訪ねて歩いた。残念なことに、昔に比べて、塩をまかれるようなこともない。どなたも友好的である。夜になって帰宅したが、戦いきった一日は、気持ちも清々しい。ご飯も美味しい。(笑)「御本尊様、池田先生、今日も戦って参りました。」そう仏前に端座して報告申し上げる。

 祈祷抄には、「行者は必ず不実なりとも・知恵はおろかなりとも・身は不浄なりとも・戎徳は備えずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ」と仰せである。

 ありのままの汚れた自分でいいと仰せである。御本尊を強く信じて妙法を唱えていけば、それで幸福になれる信心だ。難しいことなど何もない。そうしない人があれこれと迷うのだろう。仏法を根本に真面目に生活と取り組み、学会同志と連帯し、師弟不二で実践すれば、それが幸福への最高の道である。

 題目を高らかに唱えれば、体内の熱い血が燃える。そして前進する勇気と希望が湧く。逆境にあって、やる気と負けじ魂が出る。そしてそこから痛快な逆転劇が始まる。

 焦らなくとも、不安に思わなくても、必ず最後は信心しきった人が、学会員が勝つのだから、心配は無用だ。「僕が仏?最高だなあ」「君も仏、未来は明るいねえ」そう互いを励まし朗らかに生きれば、体の細胞も自然と若返り、健康になっていく。明るい心になれば、不幸も寄り付かない。そこから勝利の道が開いていくに違いない。

 この方の言われるとおり・・・「たとえお金があろうが、あるまいが、うちには御本尊様があるんだ。そう思っていけばいいんだ」

 今日はこの素晴らしい言葉を味わいながら、終わりにしよう。






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2017
08.04

友の病に同苦して

Category: 徒然の記
 

 私が学会で信心する理由の一つに、より多くの同志と交われるということがある。「汝蘭室の友に交わりて麻畝の性と成る」(御書31P )との御聖訓通り、多くの人と交われば交わるほど、磨かれ、触発を受け、学びゆくことが自然とできるように思う。これは自己の成長にとって、一人ではできない大事な要素ではないかと思う。

 私も元来、人との交わりが苦手な方なのだが、最近は役職も受け、多くの同志と積極的に交わり、時には励ます機会も多くなってきた。

 人生経験豊富な壮年の方々との交流も、味わいがあり私は好きである。とりわけ病気や経済面などで苦労してきた人ほど、人にやさしくぬくもりを感じることができる・・・これも人生の妙味というものではないだろうか。

 地元の地域にあっても、組織を超えて励ます人もいれば、またこのネットを通じて知り合いになった方を励ます機会もある。相手に適切な指導など簡単ではないが、私なりに一生懸命、誠実に応えたいと思う。誰かの力になれるほど、自分を高めゆく作業もないに違いない。

 私の地区ではないが、私には一人の婦人との交流がある。別の方の勧めで、3年ほど前にお母さんと共に入会されたのだが、私も同時進行で仏法対話をしていた。そのこともあり、むしろ入会後に、何かと連絡をいただくようになった。私は誰に頼まれたわけでもなく、その方とお付き合いしていこうと決めたのだが、それはその親子が今まで私が出会った中でも、とりわけ幸福から見放された親子であったからである。

 乳がんからうつ病、心臓の病と、病気のデパートといってもいいぐらいたくさんの病を持っておられ、、そのため仕事にもつけず、わずかな生活保護で、年老いた母親の介護をしながら生きておられる。そのお母さんもパーキンソン病である。主人がなくなってから家業が傾き、親族からも見放され、知人からも借金を理由にパワハラを受けられたと聞いた。

 先日いただいたメールには次のように記してあった。

 「こんにちは。検査でいろいろな病状が出て落ち込んでいます。一日の3分の1が不整脈で.心室からも鼓動、徐脈や頻脈の症状があり、脳に酸素が行かず、時には失神の危険もあるそうです。ほかにもエコーした時に、「僧帽弁逸脱症」といって、生まれながら、心臓の弁がずれていて、血液の一部が逆流し、そのため心臓が苦しむそうです。
 心臓が苦しい時は、テレビの音も心臓にこたえてみれないときもあります。夜は睡眠薬で寝ます。
 勤行、お題目を唱えて治療していきます。いつも祈っていただいて本当にありがとうございます。」とあった。また私の奥さんの病後の心配もいつも添えてくださっている。

 信心して3年、まださほどの確信もない中を、おそらく「死」の影を感じて不安になることもあるのだと思う。私は絶対にこの方に、病に負けてもらいたくない・・・生きる喜びを知ってほしいと強く願わずにはいられない。そのことを御本尊に祈るばかりである。

 仏法には「眷属」という言葉がある。もちろん彼女と過去に何があったか、私にはわからない。しかし、縁があったということは偶然ではないと説かれる。私の妹であったか、娘であったか、それともご近所の人であったか・・・いずれにせよ、その人と出会い、救いたいという一念が、私の命にもあって、それでこの親子に会うべくして会ったのだと思う。そうであるならこの時を逃してはならない・・・必ず彼女の力になってあげたいと思う。

  「慈悲」とは「抜苦与楽」と説かれる。相手に同苦し、「何とか彼女の苦しみを抜いて、楽しい人生にしてあげたい」。その慈悲の一念の題目はきっと彼女の胸中の仏界に感応し、仏力、法力となって、宿命打開の道を照らしゆくことを信じたい。

 思えば慈悲深い仏様を胸中に抱けることはありがたいことである。この仏様と一体となって、また水魚の思いで祈りゆくとき、不可能を可能にしていく力が湧き出るのである。 その確信を彼女にも伝え、勇気と希望をいつも届けたいと思う。





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2017
07.25

あの日の分かれ道

Category: 徒然の記
 先日は、わが県で青年大会が開催され、私も同志の方々と、観覧で参加してきました。新しい若い力による溌剌とした演目、苦難から立ち上がり、現実で勝利していく青年の体験等、大変、スピードと勢いのある大会でした。特に、県知事や各界の来賓も招待して、外に開かれた大会であったことも良かったと思います。

 見終わった後、命に新しい活力が湧くのを覚え、同志と共に「良かったなあ」と、その感動に浸りながら帰路につきました。



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 信心の功徳は生命の変革であり、「薄紙をはぐように」と表現されますが、本当に少しずつ生命の闇が晴れていく。その分、身も心も軽く、さわやかな風が命に吹き渡ります。

 この学会の信心の素晴らしさを、知らずに去っていった人の話を聞くたび、私はやはり淋しく思います。27歳で学会に入りましたが、そのころ、私と一番仲のよかった友人も、宗門問題で法華講へと去っていきました。もう20年ほど音信不通ですが、あの頃の笑顔が彼にあるだろうかと、時折、心配です。 彼が最後に「自分は大御本尊についていくよ」とポツリと言った言葉が今も耳から離れません。それは一瞬の会話でしたが、私には永遠の別れのように感じました。2度と彼が学会に戻ることはないように感じたからです。

 あの時、学会が正しいと直感した私、宗門が正しいと判断した彼・・・まさに運命の分かれ道がそこにあり、双方とも後戻りできないほど遠くまで離れました。そして宗門問題を契機に、私は学会に自分を懸けて今日までやってきました。
理屈ではなく、その活動と体験から、私は学会の素晴らしさを身で知り、人から何を言われようと決して崩れない命の財、幸福の土台を手に入れたと思います。その選択に、自分の身の福運を深く感じるものです。

 信心だけは休むことなく、学会で通すことができた・・・これが私の生命の勲章であり、御本尊様の照覧は確かであろうと確信します。この世を去る時、閻魔の前に立っても「学会員でやり通しました」と胸を張って言いたいと、その時が今から楽しみでもあります。


 日蓮大聖人様の御本尊は一切衆生のために認められたものです。宗門に相伝されたとはいえ、一宗にとどまるべきものではありません。人間の生命に大宇宙の営みに、躍動しているのが妙法です。大聖人様の御心が、一切衆生の口に妙法を唱えさせたいとの御心であるなら、一人一人の学会員の胸に喜んで、御本尊様をかけてくださることでしょう。

 「大御本尊を拝さなければ、血脈も、功徳もないよ」などという、そんな冷たい料簡でないことだけは確かだと思います。

 「会則の改正」をもって、学会は独立して心機一転、新しく船出しました。「創価丸」に乗り合わせた我らはきれいさっぱり、過去のしがらみから解放され、もう過去への執着もなければ、後悔もない・・・新しい心で、新時代へ、未来に向かって信心に励んでいけます。先生のご配慮で、本当に素晴らしい時代が来たことを、日々、感謝しています。

 学会もしばらくは夏季友好週間となり、活動もあまりありませんが、自身の充電期間ととらえ、また日ごろ会えなかった人との友好を深めながら、さらなる仏法対話の道を、開いていきたいと思います。






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2017
06.30

「宗教は人なり」-あなたは著名な学会員-

Category: 徒然の記




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 先日、聖教新聞を購読いただいているご近所の婦人から、思いがけず購読が終わるのを機にお手紙をいただきました。以前、そのお宅の牡丹の花の写真をさしあげたことで交流があり、そのことをとても喜んでくださっておりました。前記事のアマリリスの花も、実はこのお宅に咲いていたものです。

 聖教新聞が活気に満ちていること、希望にあふれ皆さんが輝いておられること、また新聞も文字が大きく、フリガナがふられ、カラー写真も多く、大変理解しやすいことなど書かれていました。「そして私の学会に対する認識もだいぶ変わりました」と・・・

 差し上げた写真を額に入れ、室内に飾っておられるそうで、その様子も写真に納めて同封してありました。

 わざわざ早朝の配達時を待って表に出てこられ、手紙を渡されました。牡丹の花の写真を差し上げた時も翌日、「オロナミンC」の10本入りを携えて、高齢の身で私の家を探し歩いて、お礼に来られました。

 ご友人の啓蒙でできたご縁ですが、私も時間を見つけ、手紙の返事を書きたいと思います。この方にとって、学会を知るきっかけの一人が、私であることは考えてみれば不思議なご縁というものです。

 以前、ある幹部さんの話として紹介しましたが、「外部の方にとって、学会員で知っているのはまず池田大作先生だと思います。その次に知っている人といえば、原田会長ではなく地元の友人の皆さんでしょう。その意味で皆さんは池田先生の次に著名な学会員であり、皆さんによって学会の実像が伝わるのです。」といわれたことがあります。

 私もその通りだと思いますし、この言葉はとても大きな意味を持っていると思います。どんなに立派な理屈を並べても、その人が信用されなければ、その言葉もその信仰も正しいとは伝わらない。我々の振る舞いによって学会がよくも悪くも映るのですから、責任を感じます。「信用」「信頼」を得ること自体が大きな折伏だと言えます。


 今日(30日付)の聖教新聞には「天使大学」の教授の方のお話が載っていました。私も初めて聞く大学で、「天使」という名前もインパクトがありますね。(ちなみに看護学科を中心とした2000年新設の北海道の大学です。)

 その教授は長年、創価学会を研究されているそうで、師事された宗教学者の先生からは「宗教は人なり」との指針をいただかれたそうです。その宗教を判断するとき、「テキストではわからない、信仰に励む人の姿を通してしか理解できない」との意です。

 この教授も多くの学会員と接する中で、学会へのイメージが変わっていったことを明かされています。

 またなぜ迫害があっても学会員は前進できるのか・・・それは「私たちは間違っていない」という信仰への強い確信と「疑似家族」ともいうべき固い団結に支えられていると分析されています。

 「異体」という各々個性を輝かせながら、池田先生と共に広宣流布に励む「同心」の集いが創価家族です。その団結ゆえに、これまでの広布と学会の発展があったのであり、これからもそれはすべてに優先する大事な条件だと思います。そのため「魔」はその団結を分断すべく、うごめいてくるものでしょう。

 そのことは「異体同心なれば万事を成じ同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候」(異体同心事・1463P)との御聖訓にある通りだと思います。特に「異心」であれば「諸事叶う事なし」と御断言なされている・・・学会が一枚岩の団結をもって、前進することの大切さが、ここに示されていると思います。

 仏法は人間のための宗教であり、各人が「人間革命」を果たすことが、一番の仏様の願いであると思います。「宗教は人なり」・・・「あのひどかった○○さんが人間革命したよ。確かに蘇生し、変わったんだ。」そういう一人の人間の姿、生きざまの中に、実証として脈打っていくものが、その人にとっての仏法の実体であるのだと思います。

 最近は私の地区も、みんなが仲良く切磋琢磨する雰囲気が出てきました。うれしい限りです。そういう変革も通り一遍の言葉ではできない・・・長年の地道な祈りや行動の積み重ね、試行錯誤や苦闘というべき戦いの中で、育ってきたのだと思います。

 愛する同志の方を抱きかかえ、ともに幸福へと前進しながら、歓喜の渦の中で、「もっともっと革命するのだ」との一念を燃えたぎらせ、まい進していきたいと思います。






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2017
02.04

春はもうそこまで

Category: 徒然の記


 昨年、家内と二人で圏で体験発表をさせていただいてから、様々な実証が出てまいりました。仕事の方も5月までの良い仕事が入り、子供の大学進学に合わせて出費が増える折、助かります。病をひとまず乗り越えた家内の方も元気な体となり、信心と仕事に励んでいます。

 そして地区の折伏の成果も上がり、地域に波動を起こすことができました。明日は「支部壮年大会」。支部長の依頼で私は折伏の活動報告をさせてもらいます。遠慮せずバリバリでやりたいと思います。

 何より、今、快調に題目があがり、生命に歓喜と勢いが出ます。ブログも忘れるほど(笑)、現場の活動が忙しい状態となり、生命は活気にあふれ、充実し、何があろうと最後はいい方向にすべてが解決していくのです。

 昔、先輩から「信心は毎日、おちょこ一杯の水を一升瓶に入れていくようなものだ。なかなかいっぱいにならないからその間が辛抱だ。満杯になればいらないと思っても功徳があふれだすよ。」と景気のいい話を聞いたことがあります。

 私の場合、「一升瓶」が「一斗樽」だったのか(笑)入れても入れても満杯にならない・・・それはそれは長い30年余でした。




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 今、生命に御前8時の太陽が昇り、未来は明るい。「今日はどんないいことがあるだろう」と思いながら、毎朝、仕事場に向かっています。

 歓喜の生命が幸せを万里の外から招きよせます。そう御書にあるのですから、必ずそうなります。疫病神や鬼神が好んで寄ってきていた命が、「常楽我浄」の幸福を吸い寄せる磁石へと変化していく。そうなればありがたいではありませんか? 難しい理屈はなくてもいい・・・一生懸命、学会と共に広宣流布を願い行動するだけです。喜んで唱題して、折伏に、家庭訪問に汗を流す・・・それで、毎日、不思議が起こり、劇的に変わっていくのです。

 先日もわが地区で友人葬があり、私も儀典部で参加しました。そこに家族の信心に強く反対している、ある婦人が参列しておられました。私も以前、挨拶した時に「私は家族を学会からやめさせたいと思ってます。」とはっきり言われました。私も祈っていたのですが、その友人葬の後、信心している家族に「あなたがやりたいなら、思いっきりやりなさい。もう反対はしません。」と言われたそうです。

 友人葬が、学会への偏見を打ち砕いたのです。導師の朗々たる勤行、唱題。池田先生からの真心の弔辞、名誉称号披露等・・・学会の友人葬の姿に、また間近で見た学会員の真摯な振る舞いに相手は変わったのです。「学会は香典を全部持って帰るそうな」そんなおかしな風評も、合わせて吹き飛ばすことができました。(笑)

 歓喜で活動に励めば、広宣流布の水嵩はどんどん増していきます。不可能を可能にする生命が、そこから起こってきます。戸田先生のあの75万世帯の宣言も、戸田先生の生命の中で、すでに成し遂げる大確信が沸き起こっていたのだと私は思います。

 さあ、寒い冬ももう少し・・・暖かい春が出番近しと待っていますよ。桜も梅も、間もなく開かんと、準備に余念がないことでしょう。我らも信心怠りなく、軽やかに春を迎えに行きましょう!

 私も地域の先頭に立って、生命の扉を大歓喜で開いてまいります。





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