2018
04.19

原田会長の指導を読んで

Category: 徒然の記

 4月14日付の聖教新聞には全国総県長会議での原田会長の指導(要旨)が出ています。私もその記事を読んで、私なりに思うところがありました。(文中、青字は原田会長、赤字はその中の池田先生の指導です。)

 一、2010年6月、本部幹部会の前夜、池田先生から大変に大切なご指導がありました。
 「明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。
 ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。
 私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい」
――

 これは池田先生が表舞台に出られなくなった時のお話かと思います。私は先生が表に出られないのは、学会の未来のことを考え、訓練の意味もあり、弟子たちの力を試しておきたいというお考えではないかと当時から思っていました。「私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である」との言葉はまさにそのことを指していると思います。

 先生が最後まで表で指揮を取られていて、ある日突然去っていかれるようなことがあれば、世間もマスコミも大変な騒ぎになるでしょう。また学会や会員の動揺もきわめて大きいに違いありません。しかし、ここ数年出られないことにより、御長寿であっていただきたいのはもちろんですが、私たちもいつかその日を受け入れねばならない。ならばいつまでも先生に頼らずに、自分たちが責任をもってやっていく時がきているのだとの覚悟を持つのは当然のことです。一方、世間やマスコミに対しても今、出てこられないことが、万一の時の緩衝材の役割を果たすと思います。

 「弟子が団結をする」
 「弟子が全責任を担う」
 「弟子が師匠に頼らない」
 この3点こそ、池田先生が教えてくださった、「学会の将来にとって一番大事な時」の根本姿勢であります。


 「君たちを信頼しているから、もう私を頼らずにやっていきなさい」との思いが池田先生が当時、会員に伝えたかった心情だったと私は思っています。

 先生のお言葉からも、先生が今の学会に全幅の信頼をおいて、見守っておられることがわかります。池田先生と現執行部の考えが相反しているといったその手の記事は、この言葉でいい加減なものだとわかるでしょう。池田先生という大指導者が、晩年ともいうべき時において、後事に遺漏(いろう)などあろうはずがありません。綿密に智を尽くされたものであったと思います。

 この数年、取り組んでまいりました、教義条項をはじめとする「会則改正」も、世界教団としての根本規範たる「会憲」の制定も、全ては池田先生のご構想を弟子が実現しゆく戦いであり、だからこそ一つ一つ、全て先生にご指導を仰ぎ、ご了解をいただきながら進めていることは言うまでもありません。
 それは、「私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい」とのお言葉通りです。
 にもかかわらず、師のご構想を具現化する戦いを、自分勝手なエゴで妨げようとするならば、破和合僧(はわごうそう)というほかありません。

 ネット上でも時々話題に上りました「会則の改正」等の教義改正が、すべて池田先生のご了承のもとで行われたことを断言されています。公式に原田会長が、こう言われたのは初めてのことではないでしょうか?「幹部が勝手に改正したのであって、それは池田先生の心に反している」等の一部の人の考えも、勝手な妄想であったということです。「会則の改正」当時、これは池田先生のお考えと一致しているだろうか?と、思った方も多いと思います。私も当時、その点を知りたいと思った一人ですが、今回の指導でそのことがより明確になりました。

 結論として、今日までの流れはすべて池田先生のご構想であったということです。そしてそれを原田会長以下、学会をあげて、池田先生の指導を仰ぎながら、忠実に具現化してきたということです。聖教新聞紙上でそのことを断言されたことは、会員にとって大変良いことであったと思います。

 魔というのは自分勝手な己義を構えて、和合僧を分断させるということが目的です。もっともらしい理屈をもって、会員の不信を喚起させ、師匠や学会と会員をかい離させる・・・それこそが魔の常とう手段でしょう。魔に魅入られた人は自身が魔にたぶらかされたとは気が付かないものです。それに対峙する人が見破る以外にありません。

 いずれにしろ、学会は大変革の時を超えて、誰に気兼ねすることなく、自由に広宣流布に前進しゆく時を迎えました。それはまさに「発迹顕本」というべきであり、池田先生の御一念によって切り開かれた新時代だと思います。

 戸田先生には池田先生という、本物の弟子がおられました。池田先生の弟子にそれに匹敵する立派な青年がおられるか、それは私にはわかりません。しかし志のある創価の丈夫が連帯していけば、これだけの世界的人材群です。創価学会の新時代を築くことは必ずできるものと確信いたします。「私はやりきった、これで盤石だ」との思いが先生には必ずおありだと私は思います。

 池田先生は常々、「各人がその地域で勝利しなさい」と言われています。後継と言っても、足元で勝利することが一番であり、一人一人が信心で幸福になることだと思います。私も地域、地元で実証を示しつつ、学会同志の方々と「異体同心」の団結でやっていきます。先生が作ってくださった新時代のステージで、最後まで学会員として、後継の道、師弟の道を歩みぬく決意です。




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2018
03.23

信仰者の道

Category: 徒然の記


 私などもうあまり難しい話は何もありません。ただ妙法を唱え学会活動に励めば、毎日が希望にあふれ楽しい・・・精神的にもシンプルな日常となりました。入会当初の凍え切った冬の生命からすれば、春のような心になれることほどありがたいことはありません。「冬は必ず春となる」のです。悩みはありますが「南無妙法蓮華経」だけあればそれでいい。そして心はどこか楽しくて口笛を吹くように軽快です。

 そうなると脳病も業病も妙法の光に照らされて氷のように溶けていく思いがします。それでまた信心に感謝して励もうという気にもなります。そんな生命の好循環がきっと幸福への軌道ですね。


 信仰というものについて考えますと、それは「より信じる」ことによって成立していく世界だと私は思います。私の周りにもキリスト教や天理教、真言宗などたくさんの宗教の信者がいますが、時折、その人たちと対話して感じるのは、その宗教を「信じて疑わない」という彼らのどこか一途な心です。



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                            <鳥取砂丘>



 これは考えてみますと当たり前のことで、信じているから布教にも回れるのであり、キリスト教の人が私のところにきて「この信仰が信じられないのですが・・・」とは言わない。(笑)やはりどの人もその信仰を素晴らしいと思い行動している。正邪は別にして、それで信仰として成立しているものです。

 不思議なことに人の脳内には「信」と「不信」があり、そのどちらにつくかで人は絶えず道を選んでいます。電車でどこかに行くにも、この電車に乗れば目的地に着くと信じるから乗るのであり、疑えば乗らない。宝くじを買うのも秘かに自分に当たることを信じて買うのであり、(笑)当たるはずないと思えば買わないでしょう。多くの行動もその時々の「信」と「不信」から成り立っています。

 創価学会に対し「信」を元にすれば学会の信仰者ですし、そこに流れる血脈・功徳にも浴せる。逆に「不信」を元にすれば学会への信仰は不成立となり、血脈・功徳も通わない・・・宗教においても「信」と「不信」のどちらを自分とするかによって、信者となるかならないか決めています。

 私たちは宗教の批評家や評論家になりたくて学会にいるのではないですね。人として正しい道、幸福の道を求めてこの信仰をやっています。その功徳を受けるためには信じて実践するしかない。なぜなら信仰は観念ではなく、実践によって利益・功徳を受けることが目的です。学会でいえば唱題や折伏、日々の学会活動です。

 よくテレビやマスコミの人が学会について語ることがあります。しかし、その人たちの大半は学会に対し「信」もなければ実践もない、いわば学会の真実を知らない人です。真実を知らない人の話ほど危ないないものはありません。表層的な出来事を見て何か言えても、学会の根本的な素晴らしさや深い意義も知らない。それはあたかも海上に立つ波を見て、「海というのはこういうものだ」と決めつけるようなもので、海の中に棲むものからすると、とても浅薄で時に的外れな話です。

  翻(ひるがえ)って自分を見ますと、私には学会に対し何ら不信の心が出ません。これは「疑い」なり「不信」を長年の信心によって淘汰したからだと思います。それは言い方を変えれば、これまでの信心よって自分の生命の基底部(難しい言い方ですいません)に創価学会があることを知ったとも言えます。

 生命が仏であるという意味において、その仏とは「創価学会仏」だと私は確信するのです。そんな仏などあるわけないだろうと笑う人もいるでしょう。どう思われてもいいのですが、「私にはわかるのです」というほかありません。そしてそれは表面的な出来事や一時的な幹部の姿などでぶれたりするという軽薄なものではないのです。

 今ではそれが自分の生命だと悟ったわけで、その意味で私は信仰者として迷いがなく、大変ありがたい道に立てたんだと思います。逆に今なお学会を信じることができないで、様々に批判なりしている人を見ますと、私にはその人が自身の生命の中の不信や慢心という魔の働きに、たぶらかされていると見えるのです。

 信仰の道とはどこまでも信じゆくことであり、「信」をもって実践しなければ何もつかめない・・・私は私なりにその道に徹し、感謝と歓喜の珠をいつしか生命に抱くようになりました。さらに「信」を貫いてこの道を行けば「人間革命」の太陽がますます輝きを増し、やがて所願は満足していくだろうと安心できるのです。






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2018
01.05

大王の膳

Category: 徒然の記

 皆様、新年あけましておめでとうございます

 4日から聖教配達が開始され、気持も新たに出発したが、山も雪を抱き道も凍てており、車も足元も滑りがちの状況であった。悪路の上、今月は啓蒙も大変多く、新規の配達でミスが出たりと、初日は1時間半もかかってしまった。

 大変な配達をしんどいと愚痴にするか、それとも法のために尽くせるといよいよ歓喜を増すか・・・一念はまことに微妙だ。私も厳寒の配達を歓喜に変えて、無事故優先で走破していきたい。

 1日の新年勤行会には、94歳になる母を伴って参加した。母は少し足元がおぼつかないが、母を連れての勤行会もこれから先、そう何度も行けないかもしれない。この歳の母を新年勤行会に連れて行けるのだから、私は幸福と言わねばなるまい。父親が早逝であった分、母には少しでも長生きをしてほしい。



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 「正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり」 「十字御書」

 最近は新年がくると私はこの「十字御書」を拝する。仏前を清め、正月のお供えをし、清らかな心で御本尊様と新春を迎えられることは、何とありがたくうれしいことだろうか。

 「十字御書」の中には次なる一節もある。「我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候」・・・

 私は「真言亡家」のままに親不孝ばかりしてきたので、この御文は身に沁みるし、耳にも痛い。(笑)それ故、今になって多少なりとも罪滅ぼしをしたいのかもしれない。2日から家内と子供が実家へ行ったこともあり、すき焼きやお刺身など母の好物を揃え、久々二人で正月を過ごした。私は一人暮らしが長かったこともあり、調理や皿洗いはお手の物だ。(笑)

 幸福になるための要素として親孝行ということはとても大事なことだと思う。池田先生も親孝行ということを本当によく指導される。また世の中で何かを成す人はたいてい親孝行者だ。スポーツをやる高校生でも勝利の後に、「誰に報告したいですか?」と問われ、「ここまで育ててくれたお母さんに」などと答えるのを見ると、それだけで「うーん、なんて素晴らしい」と感心させられる。私は自分の不幸を省みた時、「嗚呼、俺のような不孝者ではそう簡単に幸福などになれるものではない」とよく思ったものだ。

 そんな私があそこを治し、ここも治しと歴劫修行などやった日にはとても今世で間に合わない・・・仏法は「親不孝の地獄界」を「貧しき餓鬼界」を即座に「心豊かな菩薩界・仏界」へと開くことが出来る信心だ。その上、我が身が仏になれば、目連尊者の如く餓鬼界の母を救い仏に成すこともできる。親不孝者にとってはこの信心以外に、もはや選択の余地はない。(笑)
 
 私が信心で受ける功徳は、父母も同時に受けると説かれる。信心に励み功徳を積めば、両親の罪障消滅も叶えてあげることが出来る。親の根本的な苦を抜いてあげられるのだから、それに勝る親孝行があるだろうか?「大聖人様、私が受ける功徳は余すところなく、父母にも譲り給え」と、愚か者の息子は日々祈っている。

 お陰で大変穏やかな正月で、こちらも唱題をしては仏法の本を読み、また唱題しては昼寝をしたりと、(笑)ゆっくりと体を休めることができた。さほど見たいテレビもなし、お酒も美味しくなくなった・・・御本尊様と池田先生の本と、お茶とみかんでもあれば、それはわたしにとって「大王の膳」となる。その「大王の膳」を前にして私の三が日はゆるゆると過ぎていった。

 いよいよ今日から組織での会合も始まり、私は地区代表で決意発表をさせてもらう。今日からギアを切り替え、「栄光の年」の学会活動へと朗らかに出発していこう!

 それでは皆様にとって、信心倍増の善き一年となりますように・・・
本年もどうぞよろしくお願い致します。






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2017
12.28

皆様、良いお年を!

Category: 徒然の記


 今月届いた聖教「SGIグラフ」1月号には、創価三代の会長先生の写真がとじ込みの付録でついている。特に牧口先生のお写真は私もいいものがなく、この機会にと思い、いつもとは別に2冊を注文した。

 牧口先生、戸田先生のあの獄中の大闘争を、私のようなものに語る資格はない。その代り、その師弟に連なり、戸田先生にお仕えし抜かれた池田先生に随順していくことが、私にとっては三代会長先生へのせめてもの報恩だと思っている。

 とじ込み写真の次のページには、昭和31年日大グランドで開催された「若人の祭典」で、グランドを歩かれる戸田先生・池田先生のお写真が載っている。大股で歩むお二人の姿には圧倒される力強さがあり、私はしばし見とれた。

 そこには100年後200年後を見据えたような、どんな魔軍が前に立ちはだかろうと、ものともせず敢然と進みいかんとする師弟の姿と絆がある。その写真の添え書きには池田先生の「新・人間革命22巻」「波濤の章」から次の一節が引かれている。

 「戸田先生にお仕えし、お守りし、共に広宣流布に戦う中で、自分の地涌の菩薩の使命を知りました。創価学会を貫く信仰の生命線は、この師弟にあります。どうか諸君も、生涯、師弟の道を貫き、この世に生まれた自身の崇高な使命を知り、堂々たる師子の人生を歩み抜いて頂きたいのであります。」・・・

 「生涯、師弟の道を貫くこと」、「この世に生まれた自身の崇高な使命を知ること」、「堂々たる師子の人生を歩むこと」・・・それをやりなさいと池田先生は言われている。先生自身も戸田先生と戦う中で、「地涌の菩薩の使命を知りました」と仰せである。

 何の活動もしないで、頭だけで仏法を考えるような、インテリや臆病者であってはならないと、私は常々思う。不信と謗法が充満する現場に一人立つ心を持って飛び込み、同志の方と異体同心の団結を組み、悩める人のため、広布のために戦かってこそ、池田先生の弟子と言えるのだと思う。

 その意味で私もまだまだ・・・来年こそは唱題を根本に、自分に勝つ戦いをし、折伏に生活に地域で実証を勝ち取る戦いをしなければならない。

 本当の幸福とは自身の崇高な使命を知り、それに生きることだとは言えないだろうか?自分が何のために生まれてきたか・・・その深い意味を知る人はきっと少ないだろう。お金でも名誉でも、まして贅沢な衣食住の生活でもない、相対的幸福とは全く別次元の生命の究極の実体・・・仏という絶対的存在を悟り、その生命に生きる人が本当の幸福者であり、真の哲学者だと私は信じている。

 信心しながら自身の宿業に深く悩む人もおられることだろう。また組織や活動、人間関係に悩まれる人もいるだろう。しかし、全ては広宣流布という崇高な目的に生きる事によって、我が仏の生命を輝かす燃料、薪となっていく・・・悩みが重く深い人ほど仏法の世界に来れば、選ばれし使命の人として輝ける。

 さあ、来年は「栄光の年」である。同志の方と共に力強い前進を誓いあって、私も出発をしていきたい。

 この一年、当ブログに訪問くださった皆様、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。
どうか皆さんにとって来年が良い年でありますように・・・そうご祈念申し上げ、今年はこれにて終しまいです。





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2017
12.18

私の関西魂

Category: 徒然の記


 昨日は、午後から同志の方を訪問し、カレンダーや新年勤行会の入場券を手渡しながら地区を廻った。年賀状の準備や家の整理などもあり、この時期の休日は慌ただしい。そんな中、この一年を振り返り、また明年への決意を固めゆくことも、私にとっては希望に満ちた楽しい作業だ。
 
 特に今年は自分の生命にまた一つ、大きな変毒為薬が起こったことを感じている。生来、悩み症とも言える私が、その苦しみが、根底から生きる希望や歓喜へと転換した。これからも様々悩みは起こるにしても、それに負けずに歓喜の心で生きていくだろうと思う。「煩悩即菩提」の法理を、わずかなりともこの身で味わえたことは、とてもありがたいことだ。



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 その日の家庭訪問が終わり一息ついていると、総県長と圏長が連れ立って、遠いところを訪ねてこられた。聞けば朝から圏内の拠点提供の家庭などを回られていたようだ。本当に立派なことだと思う。時間を作り足を運ぶことがいかに大切か・・・ネットやメールなどは便利かもしれないが、やはり顔を合わせない、足を運ばない活動はどこか浅薄で物足りない。せめて声を交わすこと、また膝を交えて話すことに私も努めたい。その意味でも、やはり現場、地域の活動に徹するのが一番大事だと思っている。

 総県長、圏長ともに偉ぶったところのない、とてもおおらかな方である。この方々を見ていると、学会の幹部にとって一番大切なことは、権威臭、官僚臭がないことではないかと思う。そういう人とは兄弟のように胸襟を開いて対話ができ、笑顔が絶えない。自ずと人望も集まる。

 今年の法戦などを振り返り、関西の勝利についても話題になった。ある議員のスキャンダルで魔が競うスタートとなったが、関西は負けなかった・・・何故か?その原因は関西の「負けじ魂」と「団結」にあったと言われた。ある地域が危ないと聞くと、全関西がその地域に結集し、交流をし、友人知人に総当りする。その勢い、パワーがいつも常在戦場の如く充満しているのが関西であり、「関西は一つ」との思いが、多くの会員にみなぎっているからだとも言われた。私も全くその通りだと思う。

 私は関西の田舎に居住しているが、組織にあっても居心地がいい。ノルマだとか義務とか、押し付けられることを関西人は嫌い、本音を好む。国やお上の言いなりには動かないという反骨精神もある。その代わり、意気や情で感じれば、損得抜きで骨身を惜しまず動く。「先生に喜んでもらいたい」との思いが溢れていると思う。

 関西は先生の手作りの組織であり、そのぬくもりと闘魂の魂が流れ通う地域だ。関西だけで6人もの議員を輩出できる底力というのは、やはりそこに本当の「師弟」があるからであり、本気で戦う人がいかに多いかということではないだろうか。

 若くして上京し、落ちぶれて学会に拾われた私も、すでにユーターンした関西での生活が30年を超えた。思うにならない信心ではあったが、御本尊様への確信をつかみ、いつしか体内から「関西魂」の血が湧いて流れる人間になった。

 阪神淡路大震災で、全てが一瞬に崩壊する姿を、目の当たりにされたこの総県長は、「牧口先生は罰論から仏法を広められた。戸田先生は病人と貧乏人をなくさんと、功徳論をもってかかられた。そして池田先生は人間主義の生命論を持って世界へと飛び込んでいかれた。あの大震災を見た時、信心はお金や物ではない、何があっても壊れない生命の宝を求めていかねばならないのだと思った。」と話をしてくださった。本当にわかってらっしゃる方だと、私も思わず嬉しくなった。こういう長のもとでは、活動にも歓喜の輪が広がるものと思う。

 「私は生命がこう革命しました」「こんなに明るく楽しく、生きることが嬉しいのです」と、生命内奥の「心の財」の功徳を語っていく時代が、今、まさに到来している。それは学会の信心に体当たりでぶつかっていく人だけが得られる功徳だと、私は体験を通し信じる。

  自分が変わることがこの信心の眼目だ。それなくして、理屈だけでは何も変わらない。まして人も環境も変えることはできない・・・それが「依正不二」の原理でもある。
 ならばどこまでも自身の人間革命を追い求め、歓喜と感謝をもって、「師弟の大道」を歩む人が正道の人だと思う。

 さあ、今日の協議会、財務、そして週末の唱題会を持ってこの一年の組織活動がすべて終わる。気を緩めることなく、地区の皆さんと有終の美を飾る戦いで、この一年を締めくくりたいと思う。


※12.19に記事を少し修正いたしました。


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