2017
12.09

松栄れば柏悦ぶ

Category: 信心
 
「松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり」(光日上人御返事934P)

 私はこれまでこの御文を、それほど心に留めて拝したということはなかったが、最近になって、味わい深い言葉として感じられるようになり、好きな御文の一つとなった。

 人の幸せなどあまり思えなかった私が、最近はいろんな方の幸せを思い生きている。「あの人は元気にされているだろうか?」「この人の力になれることはないだろうか?」と思っては、心でお題目を送ったり、電話で励ましたりしている。

 私の友人のF君は、私の小中学校の同級生である。今もって独身だが、50代なかばで私の紹介で学会に入った。入会動機も「生活が苦しい」という単純なものだった。しかし、入会後に様々に宿業が噴き出た。住宅ローンの支払いが滞り、家が競売にかかる・・・自営の仕事の方も、元請けと折り合いが悪くなり廃業になる、といったように、瞬く間に窮地に立たされた。その後も学会に反対していた弟さんが脳梗塞で半身不随となり、同居のお母さんにも内蔵疾患の病気が出たりと、私も入会に導いた手前、どう励ませばよいのか困ったほど、つらい出来事が立て続けに起きた。



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 回りから「学会に入ってロクなことがないやないか、やめてしまえ!」と責め立てられ、本人も心が揺らいだに違いない。やがて会合にも顔を見せなくなり、訪問しても冷たく素っ気ない態度を取ることも多くなった。

 私も何とかしたいと思い、別の友人が自宅でやっていた金属研磨の仕事を見つけてきて紹介した。会社での研修期間の仕事ぶりが社長の眼にとまり、機械は会社持ちで、自宅の作業場に運びいれた。自宅は買い手がついたが、それもその人の好意で、そのままそこに住めることにもなった。肝心なところでは不思議に諸天善神のはからいがあった。年老いた母親と二人、電気も水道も止められた事があり、その時ばかりはさすがに私も見かねて、助け船を出さねばならなかった。

 それから3年ほどの間、朝から晩まで研磨の仕事をする毎日・・・いつ訪ねても機械の前で仕事をしている。もとより器用だった彼は、みるみる技術も上達し、難しい仕事もこなせるようになっていった。そして時折だが座談会にも顔を出すようになった。「拝んでるか?」と聞いても「題目三唱・・・」という返事。それでもたまに会合に出てくればいいと私も考え、いつか彼が確信を掴めるようにと祈り続けた。

 先日、地区の座談会があり、今年最後ということもあり、参加者全員に、一言づつ話をしてもらった。彼に順番が回ってくると、彼は立って、「今年、一番になりました」と指を一本立てた。司会をしていた私が「何の一番?」と聞くと、「仕事の外注組の中で、成績1位になりました」と言うのである。これには参加者のみんなも驚いて、「わ~すごい!」と歓声が上がり、見ると彼の顔からも、はにかんだ笑みがこぼれていた。

 「それで会社のある人に幸せになってもらいたいと、今、お題目を上げています」というのである。入会以後、辛い出来事がトラウマとなり、信心に消極的だったことを私は知っていたので、「あ、これは一つ壁が破れたかもしれない」と、その時、感じた。自分のために題目をあげなかった彼が、人の幸せのために題目をあげ始めたのである。

 彼はこれまでさほど一生懸命、信心したわけではない。私も彼の様子に、「退転」だけは防ぎたいと思っていた。しかし、彼は決して信心はやめないと秘かに心に誓っていたようだ。家が競売に出たときも廃業したときも、むしろ周囲のほうが慌て騒いだ。昨年はお母さんとの別れもあった。そうしたつらい時期を耐え抜いて、仕事を通して彼なりに一つの確信を掴んだのだと思う。その間、彼の生命の奥深く、妙法の種は絶えることなく息づき、今、生命の大地から瑞々しい若葉となって芽を吹いたのだ。

 友が幸せへと蘇生していく姿に、こちらもほのぼのと幸せを感じる。その夜、彼の心にともった火が、座談会に集ったみんなの心をパーと明るく照らし出してくれた。

 「松栄れば柏悦ぶ」・・・友の幸せを見るのが楽しみになったから、きっと私はこの御文が好きになったのかもしれない。





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2017
12.03

「仏様の心で信心するんだよ」

Category: 信心

 貧乏だった人がお金持ちになるのも人間革命ならば、病の人が健康になるのも人間革命だと思う。さらに悩み多き凡夫がその凡身を払って発迹顕本し、仏となって仏法を広めゆくことは最高の「人間革命」の姿なのだと思う。

 長年信心して「あなたにとって人間革命とは?」と聞かれ、言葉が詰まるようでは心もとない。私も信心をして20年ぐらいは、さほど自分が変わったという感覚があまりなく、「人間革命なんて簡単ものじゃない」と、ため息をついていた。

 ところが、私なりに苦しい時を耐え、学会に対し出来ることはなんでもやっていこう・・・と転じたあたりから、様々に変化が起こってきた。そして今「あなたにとって人間革命とは?」と聞かれたら、「自分のことしか考えられなかった人間が、人の幸福を思い、国土や世界の平和を祈り、信心をすることが何よりの歓びとなりました。」と、そんなふうに言えると思う。



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 お世話になった先輩の話をよく出して恐縮だが、先輩がある時、自分の悩みに汲々(きゅうきゅう)としている私に「仏様の心で信心するんだよ」と仰ったことがある。「仏様の心って??」とその時は初信だったこともあり、訝(いぶか)しく思ったものだ。

 ところがある頃から、その言葉がよみがえり、事あるごとに心に浮かんでくる。「仏様の心は一体どんなものだろう」と私なりに自問自答するのである。

 そして今では朝晩、仏前に座って拝み始める時、仏様は、もう一切衆生を幸福にしたくてたまらないお気持ちなんだと、感じるようになった。世界の何処かで理不尽な殺戮(さつりく)が行われている・・・そのことが悲しくてならない。世界中で宿命に泣く人々がいる・・・早く妙法をたもたせてあげたい。一切衆生のために妙法を世界の隅々まで行き渡らせたい。「誰か、忍難弘通の人はいないか!」・・・と呼びかけておられる、それが仏様のお心だと。思えば池田先生は戸田先生の弟子になられた時から、その仏様の心に深く感応され、不惜身命で広宣流布一筋に生きてこられたのだ。

 長年、私など自分の悩みのことばかり祈ってきた。いい暮らしが出来るように、何とかもう少し立派になりたいと・・・そんな自分中心の祈りから、仏様の心と同じ祈りへと、信心とともに変化していかねばならない。仏の崇高な祈りと、私の祈りが一致していく時、やがて私も凡夫から仏へと境涯が高まっていくのだと思う。

 その道をゆくなら、人を幸福にしたいという私の願いは、仏の願いと一致して叶い、また私自身も仏の力を備え、所願は満足していくだろう。

 今日も御本尊様が、私の勤行をじっとみておられる。明けても暮れても余念雑念ばかりで、自分の事ばかり祈っていては、さぞかし仏様もがっかりなされる。「もう少し、大きな心になりなさい」・・・そう思っておられることだろう。ならば今日よりは心を入れ替え、仏様のお心である広宣流布を祈り、「あの人を邪宗から救わせてください。この人を謗法から救います。世界を平和にします!」と、仏様の心を実現しゆく大きな祈りの人となって立とうではないか!

 「汝 須(すべから)く一身の安堵(あんど)を思わば 先ず(まず)四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)らん者か」(立正安国論P31)との御聖訓は、きっと凡夫が人として正しく、また無上道を生きていく上での祈りの基本を教えておられると思う。日々、御本尊を拝し、仏様の心と感応しゆく時、その御金言を命に染め抜け!と、いよいよ自分に言い聞かせ、また新たな挑戦を開始していきたい。





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2017
11.25

「題目の人」となる

Category: 信心
 

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 今年は例年よりも少し寒くなるのが早いようだ。我が家でもだいぶ前からストーブを出している。また昨日はこれからの朝の配達に備え、冬タイヤを車に装着した。これも例年より早いが、雪が降ってからでは遅い。それにしても一年は早いもので、もう師走がそこまで来ている。

 二つ法戦が終わって、体に疲れは残っているけど、私も次なる高みに向かって、新たに挑戦を開始した。その挑戦とは「題目」の戦いだ。組織では法戦の次は折伏戦となっている。しかし私は題目で一切の道を開いていきたいと、これまでにない題目闘争を考えている。

 朝は聖教配達が一時間あって、仕事に出るまでの勤行唱題も限られている。逆に夜は日によって会合が入るので、日替わりでめまぐるしい。唱題会も地区、支部、本部と週3日あり、その参加にも数年来、挑戦してきた。辛い時も、剣士のごとく真剣な思いで参加すると、やはり何かが起こり、何かが変わる・・・唱題会への参加が、行き詰まり打開の突破口となることを何度も経験した。

 一人の唱題もいいが、部員さんと息を合わせての唱題は、また違ったよさがある。唱題の呼吸、声の力などに、同志の方の生命状態を感じる。みなさんの題目に、自分の声が溶け合っていく時に、御本尊様に「異体同心」の音声が吸い込まれていく。その一体感と、題目のうねりはやはり一人では味わえない。今、私の最も好きな学会の集いは、座談会と唱題会だ。

 誰しも悩みや不幸を抱えている。しかし、それに立ち向かい「勝とう!」と決めて題目を上げる人には、一切の悩みを打ち砕く、勢いと力がみなぎってくる。力強き題目こそ「師子吼」だ。一念の定まらない弱々しい題目では魔も宿命も破れないに違いない。

 その強い題目がある限り、行き詰まりはない。導師のリンで唱題が終わると、「今日も勝った」と思う。私など怠惰な寒苦鳥のような人間なので、一人では負けることもある。そんな時、同志との唱題は何よりも励みとなる。唱題会に参加し、唱題会に励まされ、私もここまでやってこれたと思う。

 題目闘争を決意したのも、夜、自宅での題目が好調であることが原因だ。普段は会合を終えて家に帰ると、9時を回る。食事や風呂などをすませて、そこから「あともう30分」と挑戦する。調子がよく唱題が以前よりも楽しくやれることがありがたい。これも法戦の功徳だと感じている。眠くなったり苦しい時は無理できないが、修行だと思えば自分に鞭打つこともある。私の先輩も「あと5分」の題目が大事だと言われていた。

 ともあれ題目一本で未来を切り開く思いで頑張りたい。題目がよく上がると、さすがに生命状態は好転していく。それは生活にも反映していくものだ。題目をあげたいと仏前に座る気持ちが旺盛なら、その時、生命は大いに革新しているのだと思う。

 「題目の人」となり、「題目の軌道」に乗ることが、どんな策や方法よりも優れた、信心する人の王道だ。誰がどう言おうと、一年、三年、十年と、コツコツ題目を上げぬく人には敵(かな)わない。最後の勝利を得る人はどなたも「題目の人」となっておられる。生命を題目で磨く以外に、また魔を題目で責め抜く以外に、本当の幸福も「人間革命」も手に入れることはできないだろう。「浅きを去って深きに就く」思いで、私も今こそ唱題に徹する道を行こうと決意した。

 さて、師走に向かい、まもなく本年の総仕上げの月となる。途中は負けがあったり波乱であっても、最後に勝つのが仏法だ。年末には「この一年、私は勝った」と言える人でありたい。そのためにも最終12月の戦いが大事だ。私の中では新しい年はもうすでに始まっているかのようだ。その明年が確かに「栄光の年」となるように、この師走をひたぶるな題目で疾駆し、大勝利の礎としたい。






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2017
11.17

私の変毒為薬

Category: 信心


 最近、私も頓(とみ)に信仰実践の素晴らしさを知り、ますます学会活動中心の信心となってきた。国政、地方選と二つの法戦に勝利し、その中で多くの共戦の同志の方と、絆、友情を深めることができた。そのことが何よりも嬉しい。正直、自分がこんなに学会活動を好きになり、躍動するとは、当の本人が一番驚いている。

 というのも私は入会5年目から7,8年、真言宗の実家に戻ったこともあり、ほとんど信心らしい活動をしないで過ごした。それが30代の時で、一番、体も動く時に、ただ仕事に行って帰るという生活を送っていた。



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 それでも題目は胸中で常に唱え、必ず開く時がくると心に期していた。その一念が通じたのか、40代になって、母が入会に応じてくれ、ようやく我が家も真言宗からの改宗を果たせた。それを契機に、信心の扉が開き、組織嫌いだった私は、意を決して学会活動に飛び込んで行った。

 ところが生命が濁っているせいか、その活動がとても苦しい・・・修羅や怨嫉もよく出て、頭が痛み、会合の帰りにはドッと疲れて、善をなすのになぜにこんなに苦しいのか?と呻吟する時期が長く続いた。自分はほとほと学会から、先生から見放された生命だと、あきれたものである。

 そこで私は、「それならば」と腹をくくった。「無冠の友」を志願し、家の前の田んぼを潰して、車が十台とまれる駐車場とし、支部、地区の拠点に我が家を提供。大勢人が来てもいいようにと、仏間の床を補強し、破れたふすまを張り替え、仏壇を拠点用にと大きなものに買い替えた。学会に対し、やれることを全部やってそれで駄目なら、組織に出ずに一人で信心しようと考えたのだ。

 その後、王城会や地区、支部役職と頼まれた役職は全部受け、会館回りの草刈りなども志願してやった。そんな潔い信心が良かったのか・・・ある頃から、あれよと言う間に、学会嫌い、組織嫌いが治ってしまった。

 「あの人のここが嫌だ、信心が感じられない」などと偉そうに思っていたのが、「この人も素晴らしい、立派だな」と思えるようになり、人を尊敬の目で見ることも多くなった。幹部に対して文句が多かった私だが、その人達の良い部分が見えてきた。健気な信心の会員の方も、もちろん尊敬できるようになった。そうなると回りも私に、親しみと笑顔で接してくれるようになり、今ではどなたとも楽しくやっている。「自分が変われば回りが変わる」ということを一つ学んだ。

 大の組織嫌いだった私がこんなふうに変われた。これは自分の命が180度転換した現証であるから、「変毒為薬」とはこうだと人にいえる。過去の法華誹謗の罪で、命が学会に反発していたのが、学会大好きへと転じた。人嫌いが大いに人好きになってしまった。今、多くの人たちを愛せる自分を感じている。信心は悪い子がいい子に変わるのである。

 そうなると「ありがとう」「うれしい」の心が起こってくる。苦しい生命が「ありがとう」の生命に変わる。そこから人として勝利の人生が始まっていくだろう。それは大きな変毒為薬だ。

 信心に励めば、生命から毒が吹き出す。過去世の謗法の傷が現れ、宿業の波に翻弄されもする。魔も必死に領土を取られんと、十軍の戦を仕掛けてくる。その苦しさの中で「人間革命」を目指すのであるから、よほどの覚悟、決意が求められる。戦いは壮絶で厳しいに違いない。私など辛い時には、腹の底から雄叫びをあげる。「魔性め!くるなら来い、お前には負けんぞ!」「先生、私は必ず勝って見せます!」と・・・その魂からの叫びがある限り、胸中の悲哀を乗り越えて人は前進できるものだ。

 自分を称え、人を称え、御本尊を賛嘆し、池田先生との師弟に生きるなら、その生命は幸福であり、人間主義であり、仏の生命と言っていいに違いない。私もその生命の人となって、多くの人に幸福の明かりを灯して生きていこう。「変毒為薬」の仏法の素晴らしさを語りながら、ともに「一生成仏」の頂きを目指していく決意である。




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2017
11.04

自転と公転

Category: 信心

 ここ10年以上、私は聖教配達をさせて頂いたお陰で、朝は5時過ぎに起きることが習慣となっている。代配がいないこともあり、新聞休刊日以外、休みはない。その代わり日曜だけは7時代の配達でお許しを願っている。最近は朝晩、寒くもなってきたので、朝一番、布団から出るのが億劫になってきた。

 目覚まし時計を恨めしげに止めて、しばらく布団に潜ったままでいると、やがて大宇宙から声が届く。「さあ、今日も広宣流布のために戦おう!」この声に自分の命もやがて呼応する。「よし、広宣流布だ!」そう言い聞かせ布団から這い出す。そして目を覚ますためにお茶を一杯入れて、車のカップホルダーに載せたらいざ出発である。

 最近になって広宣流布という目的に、自分が生かされていると感じることが多くなった。自分の小さな一日、活動がどう広宣流布に繋がっていくのか・・・池田先生が切り開かれた世界広布の大潮流の中で、私が20数件の家に聖教新聞を配達し、勤行をし、仕事に出かける。仏法対話や友の激励に走り、学会活動に汗を流す。こうした行動が、広宣流布に、また「一生成仏」や「宿命転換」にどう作用するのか・・・凡夫にとってはわからないことと言っていい。

 しかしそれはちょうど、大海の一滴のようなものだと考えていいと思う。つまりその一滴が集まって大海となるのであり、大海といえど、その一滴がなければ成り立たない。一人ひとりが、今いる地域で広宣流布のために小さな活動を積み重ねる。その一人の行動は即法華経という大海の水に同化するところとなり、我が身また大海となり法華経となりゆく。そうであるなら、私達の地道な民衆運動が、法華経を法華経たらしめているのだと言える。

 以前、ある方から、「自分の欲望や功徳のために信心するうちは、まだ本当の信心ではないのではないか?」と、コメントを頂いた。しかし、私はこの信心においてはそれは違うと思う。確かに自分を空しくしたり、欲を持たずに広宣流布に生きればきれいに思うかもしれない。しかし、人間の生命はそうはできていないし、そんなことはできないものだ。

 私たちは食欲があるから元気を出せるのであり、物欲があるから、経済も活性する。夢があるから向上することもできれば、功徳が欲しいから仏道修行に勤しめる。それが人間の本来であり、自分なりの願望や欲望を捨てれば、かえって無気力になり、生きる希望もなくなるだろうと思う。私など功徳が欲しくてしょうがない方の衆生だ。

 欲を上手に使いながら、またコントロールしながら人は生きているのであり、自分を良くするために、また自分のために一生懸命生きようとするその働きは、地球でいえば自転の働きに例えられる。

 そして地球は自転だけではなく、同時に公転をしている。信心で言えばそれが広宣流布の運動と言える。自分のために一生懸命頑張りながら、広宣流布という大きな公転に則っていく・・・これが正しい宇宙の法則である。公転を仏に、自転を凡夫と見てもいいかもしれない。凡夫でありながら、同時に仏の生命である。

 信心が進むということはこの公転を意識した生命、つまり広宣流布に生きる仏の生命、生活になることだといえる。自分だけの幸福から友の幸福、世界の平和と言った、菩薩の生命へと変わっていく。それでも五欲もあれば、地獄も餓鬼界も捨てはしない。そして自転と公転のどちらも大事にしながら、それぞれが最高の使命に生き抜いていく・・・仏の生命、生活が貧相で、明けても暮れても喧嘩ばかりしているなどというのは、それは公転の働きに生命が合致していないからだ。

 私もようやく、広宣流布に生きる生命へと変革してきた。朝な夕な祈るのは地域の広宣流布であり、世界の広宣流布である。その上で自分のことも祈る。その祈りから広布の戦いに出発し、一日の活動を終えて、また夜の眠りにつくのである。

 太陽も地球も毎日、単調といえば単調な動きの繰り返しだ。しかし、その単調な動きの中に、波乱に富んだ多くの人の生き様がうごめいている。その人の生命は地球よりも太陽よりも大きく宇宙大であると説かれる。しかしそのことを誰も知らない、そのため争いがこの世から絶えることもない。

 私もまだまだそういう一人であり、それ故に我見に走らず、仏の教えに殉じ、創価の師弟の道で、一日も早く生命の真実を得たいと願う。あとから続く道を求める多くの人のために、雪山童子の如く悟りを得て、仏法の本義を正しく伝えゆく自分とならねばならない。







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