広布の大河に君ありて tori

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烏(カラス)の黒きも鷺(サギ)の白きも



 今月の本幹では四国の愛唱歌「紅の歌」が紹介されました。私も朝の配達時、車中で「学会歌」を聞きながら走ることがあります。ちょうど朝の太陽が空を染めて、「紅の歌」に乗せて、私の心には創価の太陽が昇ります。


 池田先生はご自身の入信について「日蓮仏法の難しいことは何もわからなかった…ただ、権力から弾圧を受け牢獄に入られた戸田先生という人を信じたのです。」という意味の話をされています。きっと出会われたその瞬間に、法華経の「師弟」を悟られたのだと思います。

 私はと言いますと、27歳で折伏を受け、生まれて初めて「妙法」の話を聞いたのですが、他の宗教はことごとく拒否反応が出ていたにもかかわらず、「妙法」だけは何の疑いもなく、命に溶け込むようにその場で入ってきました。そしてその夜から一人題目を唱え始めたのです。自分も気がつかないところで、生命は奥深くその時を渇仰していたのだと思います。まわりにも学会員がいたのですが、みんな私だけは信心しないだろうと思っていたそうです。(笑)

 入会しても私は池田先生をそれほど求めたわけではありません。学会活動にも出ていましたが、信心を教えてくださった先輩が、宗門の話を良くされましたので、お山にも良く行った方ですし、近くの寺院にもよく行っていたのです。
 もちろん出家などは考えたことはありませんが、もしそうしていたら、今頃、放蕩三昧の悪僧として、「創価新報」で叩かれていたでしょうか?(笑)



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 私は心中、僧俗和合を願っていたのですが、ある日、宗門問題が明るみになり、学会が破門されるという事態が起こりました。その時、即座に「これは宗門がおかしい」と直感しました。

 理屈は抜きにして、これだけ創価学会や会員からご供養を受けていて破門するというのは、人の道に外れているというのが率直な感想でした。立派なお説より、やはり人は振舞ですね。正本堂の破壊など、狂気の沙汰としか思えない所業です。

 今となってはその事件によって、自分は学会一筋の道に、池田先生だけを求め行く道へと入ることができたのですから、ありがたい出来事となりました。私の僧侶や寺への尊敬の念も、泡のごとく消え果てました。私の多くの大切な友人が法華講へといきましたので、それはまさしく信仰上の分岐点であったのです。

 振り返りますと、信仰の道も理屈ではなく、過去の宿縁、因果ということに引っ張られていくことを強く感じます。戸田先生は仏法を邪魔する僧について「大聖人様の御時代に、あるいは良観とか、あるいは法然の弟子とか、そういう者(の弟子などになる連中)は、いったい過去にどういう者だったかというと、昔、仏法をくさした外道の者が生まれてきて、仏法をやってですね、そうして今度は正法を邪魔するんです。そうすると今度どうなるか、あいつらが死ぬと、今度は日蓮正宗のなかに生まれてくるんだよ。誠にこれはおもしろいもんだぞ」(佐渡御書講義)と言われています。

 今の所業が因となって、人は次なる生の果報を受ける・・・因を作った以上、その果は避けられないものです。生命の因果を深く知悉されている戸田先生ならではの言葉だと思います。

 御書には「烏(カラス)の黒きも鷺(サギ)の白きも先業のつよくそみけるなるべし」(佐渡御書959P)とあります。いかなる先業をもったものか、凡眼の私には自身の因果すら見えません。ただ今の自分を見て過去の自分を察すれば、学会と池田先生に縁が強かったことは確かなことです。

 ともあれ私の一生は「創価の師弟」で生きていく人生となりました。その信念が自分の生命に宿っていたこと、それが幸福の土台のごとく生命に現われたことを本当にうれしく思います。晴れ晴れと生きていけるこの「師弟の大道」を我が生命に染め抜いて、今日も地域の同志とともに、朗らかに前進していきたいと思います。





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題目の力




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 朝晩、少しづつ寒くなってきました。聖教配達も朝5時起きですが、布団から出るのに苦労しています。(笑)

 毎朝、配達を終えると、一息入れて、奥さんとの勤行を交えて、一時間ほど題目をあげます。その題目も昔に比べて、強く軽やかにあがるようになりました。

 苦しくても題目、楽しくても題目・・・題目が良くあがっていれば、心には希望が湧き、勇気が湧きます。じわじわと歓喜が体に湧きあがり、人から悪口を言われても「ああ、ありがたい。これでまた悪業が一つ消えた」と感謝の心が湧きます。

 水の流れる如く、毎日題目をあげぬいていく・・・それが私の生きるエンジンです。その積み重ねに確かな冥益が約束されるのだと思います。

 戸田先生は言われています。「(御本尊の利益は)生命力が絶対的に旺盛になるということである。生命力が旺盛であれば、悩みだ、苦しみだ、貧乏だなどと、いろいろな愚痴をいう世界が明るい楽しい世界に変わる。」

 あの人が悪い、周りが悪いと愚痴をこぼすうちは、自分の生命力が弱く、信心が足りないということになります。環境は同じでも信心が強ければそれが楽しい世界に変わる。悩みを題目で楽しい世界に変えるからこそ宿命に勝てるのに違いありません。

 世間では「恨む」「憎む」ということがよくあります。しかし、仏法の世界にくると、どこまでも相手の幸福を祈っていく、その自分になることを目指して行くことを教えていると思います。それは人との間に起こる出来事も全部、自分に因があると捉えていくからであり、その自身の業を転換すること、さらに相手の幸福を祈れる自分になることで「人間革命」を果たせるのだと思います。

 更に戸田先生は、「題目の力は偉大である。苦しい業を感じる生命が、あたかも花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである。」・・・こうなふうな生命になるともう「絶対的幸福」の境涯ですね。我々も題目でそうなれるに違いありません。

 誰しもある意味、苦しいものです。みんな悩みや病を抱えて生きています。楽な悩みなど一つもありません。それでも生命力強く笑い飛ばして生きていけるのが妙法です。悩みの姿のままで、御本尊様に題目をあげぬいていく・・・そこに不思議にも悩みを見下ろして、宿命転換に挑む逞しき自分が現われてきます。

 10月の座談会御書では「おのおの師子王の心をとりいだして」とありました。師子の心を自分から出しなさいと仰せです。臆病な人にも、魔を恐れず、魔と戦う師子の心があります。信心強き人とは「何ものをも恐れない心」の人だといえるかもしれません。

 決して不幸を恐れない、病気を恐れない、悪を恐れない・・・それらと勇敢に戦う師子王のごとき人間となれば、きっとこの世が花園のように楽しい世界に変わるのだと思います。私もその境涯を目指して、今日も題目で自身を磨いていきたいと思います。

 
 ※創価大学、箱根駅伝出場おめでとうございます!並み居る強豪校の中で3位とは本当にすごいですね。素晴らしいです。これに力をいただいて我らも頑張って行きましょう!

 



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始めは事なきようにて




 10月の座談会御書、御書講義は「聖人御難事」です。「月々日々に強(つよ)り給え、少しもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」の御文が出てきますね。私も支部の壮年の皆さんと一緒に研鑽することができました。同志が寄り集まって、膝を交えともに御書を学ぶ・・・その小さな会座(えざ)こそ、大聖人様のお心に添ったものであり、地域広布の核となるものと思います。

 「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」これは大聖人様の27年間のご難について述べられたものですが、池田先生や創価学会員である法華経の信者を軽賤し、迫害、誹謗する人々も同じ末路を辿るものと私は思います。

 姿はどうであれ、御本尊を信受し、妙法を唱えゆく人は仏であり、不軽菩薩の振舞を見ても敬わなければなりません。同志誹謗、信者誹謗は厳に慎まなければならない。相手の尊厳のためにもまた自分の福運を消さないためにも、気を付けたいと思います。

 「始めは事なきようにて終にほろびざるは候はず」・・・と、厳しく仰せです。やがてその人の生活は破たんし、精神は悩乱し、敗残者となっていくのであり、私もかつての友人にその姿を見ていますが、罰の姿は恐ろしいものです。





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 精神が悩乱し、魔に誑(たぶら)かされると人は他者を認めたくなくなり、そして相手の長所ではなく欠点をあげつらうものです。正を邪に見せ、邪を正に見せる・・・まさにそれが「魔の行動」です。大聖人様の法難に於いても権力者は大聖人様を邪悪の人へと貶(おとし)め、自分たちが正義であるがごとき画策をし、行動に移し、弾圧しました。

 私がある役職をいただいた時ですが、前任者が私の悪口を会員に言ってまわったということがありました。「あいつの信心はおかしいから気を付けろ・・・」等々、プライバシーも含め根も葉もないことでした。「真偽」や「正邪」と言うものは、言葉巧みにすり替えようと思えば、表面上はある意味簡単です。その前任者の心は私へのやきもちだったのでしょう。常日頃、「我こそは先生の弟子」と名乗りながら、本性はケツの穴の小さな御仁です。(笑)

 「特定の会員のことをことさら悪く語らってくる人には気を付けた方がいい」・・・ということを私もその経験から学びました。それらの多くは怨嫉、憎悪がもとにあり、「一切衆生を幸福に」との仏の境地とは真逆の「私情」や『私怨」です。本当の仏法者は相手を認め、相手を自分以上の高みへと引き上げようとするものです。人を非難し、貶める人は本当の信仰者ではない・・・そこにその人の善悪を見極める鍵があると思います。

 それ故に我々は常に同志と集い、団結し、同志の間を分断する魔を見破り、お互いに注意していかねばならない・・・信心の根本道場たる地区・地域の会座に出ていって切磋琢磨する・・・そういう場所がより大事になってくるのだと思います。組織に是々非々ありますが、本来、組織は会員一人一人の信心を守り育てるためにあるのです。組織に参加する意義はとても大きいと、組織嫌いの私が言うのですから本当です。

 今年は台風も多いですが、秋も本番を迎えていますね。地元では祭りの笛の音なども聞こえていますが、私も夜はできるだけ唱題に励むようにしています。「一家の幸せ」、「地域の方の幸せ」、「縁ある人の幸せ」を祈りながら、「実り多き秋」にしていきたいと思います。





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病多き衆生の良薬

 

 聖教新聞の体験談を見ても家庭不和や経済苦、医者も見放すような病気、障碍と、それこそありとあらゆる悩み、苦しみがでてきます。それでも明るく強くたくましく生きていくことができる。悩みを跳ね返し、悩みに負けない生命力を日々の信心で湧現し、やがてその悩みを克服していった体験であふれています。

 その一番の原動力は何か? 私は自分自身の「負けじ魂」であり、信心に対する「「歓喜」「感謝」の心ではないかと思います。

 前回の記事で、池田先生の「感謝するから幸福になる」との言葉を引用しましたが、私自身はどうかというと、実は感謝や歓喜が湧かない時期も長くあったのです。(引きこもっていた時期もだいぶありましたので(笑))

 それが私の場合はある悩みを契機に感謝や歓喜の信心に変わっていきました。どういうことかといいますと、その悩みは自分ではどうすることもできないもので、御本尊の力を頼む以外に道がなかったのです。どんな悩みでも解決できる御本尊をいただいている・・・無理を承知で頼める御本尊がある・・・そう思うとそれだけで「なんとありがたい」と思えたのです。





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                             <白い曼珠沙華>




 「南無妙法蓮華経」は一切衆生のあらゆる病の最上無比の特効薬です。そしてその薬は飲み放題であり、飲むほどに体内に行き渡り、不思議にも悩みは解決していきます。そう思うと、題目がありがたく思えて、あげることがうれしくなってきたのです。早く良くなりたいものですから、よくあがるのです。

 コップ一杯の水は普段はさほどありがたみを感じませんが。本当に喉が渇けばそのありがたみがわかります。それと同じように自分が窮(きゅう)した時にはじめて御本尊様を拝めるありがたみを感じたのです。


 世の中には精神的な病や癌や難病など、まだまだ医学では解決できないものがたくさんあります。そういう宿業が身に出た時、「ついに出たか、だがいかなる病もこの妙法で治せるのだ、その題目が自分にはある。」「御本尊第一、題目第一でこの病を必ず変毒為薬できる。」「ありがたい、ありがたい」と歓喜と感謝に燃えて、題目を唱え抜いていけば、御本尊様の力が湧かないわけはないと思います。そしてその題目は凡夫にはまさに「色香美味」であり、ありがたくおいしいのです。

 それを幹部に指導を受け、「あなたは何時間あげなさい」などと言われ、「大変なことになった」と渋々義務であげてもどこか苦しいものです。(笑)それより「ありがたい薬を飲ませていただける。」と歓喜と感謝の心であげれば、仏も歓喜して我が身に力を返してくださるのではないでしょうか?

 その題目に功徳が出ないということはないと思います。どこまで行っても自分の一念が自分に返ってくる。おまけもお釣りもありません。鐘を突けば突いた力の分で音が返ってくるように、自分の信心がそのままダイレクトに返ってくるのだと思います。

 「この腐った脳味噌をきれいにしたい」 「もっと笑いがあふれる家庭にしたい」 「貧乏を卒業してお金もじゃんじゃん入ってくるようにしたい」と、私など病気も満載の不浄の身の上です。ですので今日も「妙法病院」に通い、「南無妙法蓮華経」のお薬をありがたく頂戴するのであります。

 この感謝の題目にどんな功徳が返ってくるか、私はいつも楽しみです。ニッコリ笑顔で大聖人様の御生命を拝し、「南無妙法蓮華経」をありがたく唱える・・・それしか私にはこの世を生き抜く智慧も力もないのです。






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さなくしては後悔あるべし




 私は学会2世でも3世でもなく、27歳の時に友人の折伏を受けて創価学会に入会したわけですが、入会当時は創価学会の「そ」の字も知らず、池田先生のことも週刊誌の記事程度の知識しかなかったわけです。入会を決めたのは「南無妙法蓮華経」の題目に「何か」を感じたからにほかなりません。

 それでその日の夜から一人拝み始めました。どうしてすぐに拝みだしたのか、今思えば不思議なのですが、やはり自分が欲していたものに出会えたという、そういう感激はあったに違いありません。その日、都会のアパートの一室で、私の生命に歓喜と希望の灯がともったことも事実であります。

 誰しも、「南無妙法蓮華経」をわかって、また創価学会をわかって入会した人はいないはずです。わからなくても信を立てることができる・・・これを妄信(盲信?)と揶揄(やゆ)する人がおられますが、私は自分の体験に照らし、そういうものではないと思っています。




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                            (夏の朝のラジオ体操)




 それは乾いた喉が水を欲しがるように、理屈抜きで欲するものであり、自分の知らない生命の内奥で本能的にそこに向かいたいという力が起こっているのだと思います。30数年たってもいまだにその心境のままに、また何かにつけ題目を唱えたい、池田先生を求めて生きていきたい・・・と、「人にやめろ」と言われても、「いまだ懲りず候」・・・生命が朝な夕な自然とそこに向かっていくものです。

 御聖訓には「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし」とあります。(上野殿御返事1558P)いい時も悪い時も、御本尊様と池田先生だけは信じて求めていこう・・これが私の「一生成仏」への道であり、「さなくしては後悔あるべし」と戒めています。

 信心が深まるとは、生命の奥深くにそうした信念が珠となって成就していくことではないでしょうか?。それがまた冥益だと思います。この珠は大樹のように命にどっしりと根を張り、自分で動かすこともできなければ、人の言によっても、動くことはありません。日々の題目と学会活動がますますこれを堅固なものとなし、やがて自然と仏界に至り、所願は満足するだろうと思います。

 入会以来、私なりに御書を始め、学会書籍や指導を拝読してきたのですが、それらを正しいとか正しくないとか考えたことはありません。御書はもちろんの事、戸田先生、池田先生の指導にしても、私にとっては正しいと信じて拝していくものです。それは「思考停止」でも「洗脳」でもなく、それ以上に「信じる」ということに重きを置いた生き方であり、自分の理屈や我見で、学会や池田先生に不信を持つ生き方とは真逆です。

 凡夫の智慧では推し量ることもできない、どんな理屈でも説き明かせない不思議の一法が妙法です。御本仏から妙法流布を託され、広宣流布を指揮される三代の会長を永遠の師匠と仰ぎ、どこまでも信の一字を持って呼応していく・・・それこそ我ら学会員がこの身を払って、仏身となりゆく確かな道であり、私の30余年の信心もまた、その迷妄を打ち破るためにあったと言えます。


 



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