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2020
06.11

久遠の時は今ここに・・・

Category: 信心

 数日前、時間というものについて少し思うところがありました。私の考えることですので、正しいというよりは手探りで思索していくという感じですので、そのつもりで読んでくださればと思います。

 私たちは普段、時間の流れを一本の線のようにとらえ暮らしています。過去、現在、未来・・・昭和・平成・令和という風に。しかし、仏法では時間の流れは「無始無終」となっています。始まりもなければ終わりもない・・・たとえ線であってもいつから始まっていつ終わるということもない不思議なものです。



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 その時間を実体として感じられるのは、今のこの瞬間の生命だけということになります。昨日の私や明日の私がどこかにいたりはしません。今の私以外に過去や未来の私がどこかにいたら気味悪いことになります。今ここにいる私以外に私はいません。

 過去に戻りたい、未来に行きたいと思ってもそんな時はありません。タイムマシンに乗って若くて美しかった20歳のころに戻りたいと思っても、人生は残酷で年老いていくだけの一方通行です。(笑)

 仏法には「久遠」とか「久遠元初」という言葉がありますが、それは遥か彼方、計り知ることのできないほどの昔と説かれます。しかしそれも、紀元前何年何月というような具体的な時ではなく、どこまでも「無始」を表現したものだと言えます。

 これまた実体があってないような「空」という考え方でないと理解できない時です。その時はいつだったのか?本当にあったのか?と問われれば、死後の世界を知るよりも難しいかもしれません。

 その上、時間だけでなく、空間的にも宇宙は無限であり、果てしがないと説かれます。時間、空間共に果てのない世界であり、そしてそれがまた私たちの生命なのだと言うのです。私たちの生命も無始無終であり、果てのない宇宙だと・・・

 生命にも終わりがないのですから、死んでもまた生まれてくることになります。死は無になる死ではなく、生まれ直るための方便であり、「若退若出」(にゃくたいにゃくしゅつ)とあるように、ちょっとひと眠りしてまた出てくるようなものだとあります。

 池田先生はその生命の生死を波の起伏に譬えておられます。生きている時は波が立ったようであり、死ぬ時は波が収まって消えたようなものであると・・・それを読んだ時、すぐにはわからなかったのですが、しばらくして私も生命の永遠性が腑(ふ)に落ちたと感じました。波は大海の上で立ったり消えたりします。生命の大海とは宇宙です。死んで宇宙のどこかに冥伏しては、また縁に触れオギャアと生まれ出る・・・自分は無始無終の生命として波のように宇宙を母体として、生死生死と経めぐっているのだ。すなわち私の生命は宇宙であり永遠なのだと・・・

 「久遠」という時が一体いつか?凡夫にはわからない時なのかといいますとそんなことはありません。実は久遠とは末法の今だと教えるのです。それが「久遠即末法」「末法即久遠」ということです。これは久遠も末法も一つであり、せんじ詰めると生命の中にあっては一体だということです。生命を離れて久遠という時はないとも言えます。

 時間を歴史のように線で考えますと、久遠と末法は別地点ですが、生命の中では同時であり、それゆえ私たちは末法にいながら、久遠元初の生命に立ち返って生きていくことができます。

 私たちが受持し、拝む御本尊は末法の御本仏である日蓮大聖人様の「南無妙法蓮華経」のご生命をあらわされたものです。大聖人様はまた久遠元初の御本仏です。久遠元初の大聖人様も末法御出現の大聖人様も同じご生命であり、大聖人様のお出ましになられるところはいつの時代でも久遠元初と言えます。それで私たちも御本尊を拝む時、意識せずとも「久遠即末法」と開いていることになります。

 きっと今、共に戦う学会同志もみんな久遠の時にともにいた仲間なのでしょう。今が久遠ならば人も同じです。創価三代の会長先生たちは、一番先頭に立って、修行をなされていた・・・その時、私はいつも遅刻ばかりして、後ろの方でぼんやりしていたのかもしれません。

 「そんな難しいことわからんけど、私は元気いっぱい学会やっているよ」・・・それが現当二世の信心の証です。どんなに宿業が深くても信心を強く持てば、過去の業因は太陽の昇った後の朝露のように消えはて、毎日、久遠元初の生命に立ち返り、溌剌と未来を創造する人生を生きていけるのです。

 元気で生命力に満ち明るい人、宿命に負けずに笑い返せる人、うれしくて題目をよくあげている人・・・そんな人が一番です。きっとその人が「久遠即末法」を身をもって生きている人だと言えるのではないでしょうか。

 私もしっかり題目をあげて、久しく遠い時を思い出し、一層、信心に励んでいかねばと思います。


※長くなり恐縮ですが、池田先生のご指導です。ともに研鑽してまいりましょう。

妙法広布に戦う現在こそ久遠元初
 久遠元初とは歴史的過去ではない。遠きかなたのことでもない。この瞬間に永遠を凝結させている、大海のごとき大生命そのものであり、満々たる力と息吹をたたえているものであります。「御義口伝」にいわく「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」とあります。久遠は通常「時の無窮なこと」「遠い昔」「永遠」というように理解されております。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の眼からみるならば、久遠とは時間的な意味も含めて、大宇宙の本源、生命の根源の意義にまで及ぶのであります。無作本有常住の生命、無始無終の生命であり、久遠元初自受用報身如来の御生命を指すのであります。同じく「御義口伝」に「久遠とは南無妙法蓮華経なり」とあるごとく、久遠元初とは、一言にしていうならば南無妙法蓮華経それ自体であります。
 さらに南無妙法蓮華経と唱うる私達の生命もまた久遠元初を開いているというべきであります。
 故に、私達が常に御本尊を受持し広布のために戦うことこそ自体が、久遠の仏法の姿となっていくのであります。この元初の生命に綴られた尊い歴史というものは、永遠に消えることなき信心の元初の経典として輝いていくに違いありません。私達は今こそ、元初の朝の日の出を迎えている信行学の日々と銘記したい。
(百六箇抄講義より)



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2020
05.28

「冥益」の功徳を楽しみに

Category: 信心


 全国的にも「緊急事態宣言」が解除され、ウイルス問題も一山超えたかのようですが、第二派も予想される中、油断は禁物ですね。まだまだ自粛の心も持ちながらあ安全に留意して生活したいと思います。

 そんなコロナ問題の最中、私も題目をあげていて生命がまた一歩、変革していく功徳を感じています。そしてそれが家庭や仕事に現証となって現れてきました。



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                       <今年も無事に田植えが終わりました>



 プライベートなことで詳しくは書きませんが、家庭内が以前に比べ円満になってきました。なってきたということは以前はそうでなかったわけで、夫婦や嫁姑、親子関係など、時には口喧嘩やギクシャクすることも良くあったのです。

 それが変わってきた一つの理由として、私が家内を立派だと思い、感謝できるようになったことがあります。家庭は一番身近で気を使わない人間関係なので、感謝というようなことは普段あまり感じない、ご飯作るのも洗濯するのも当たり前のことです。それが家事から仕事からよくやってくれていることに、心からありがたいと思う気持ちが出てきたのです。それが相手に通じるのか自然と会話も増え、相手も私に対しとげとげしさが無くなってきたように思います。

 嫁姑ということも、家内がよく私の母の面倒を見てくれるようになりました。普段は「私、お母さんのこと好きになれんわ」と距離を置いていましたが、先日、母が転倒してから、お風呂やトイレ、食事などあれこれよく世話をしてくれます。「よくやってくれるので感謝してる」と言いますと、「家族やから弱った時はみんなで助けるのは当たり前や」と言います。そんな言葉を聞きますと、家内もすごく変わってきたんだと思います。

 また下の娘がコロナで休校中ということもあり、夜は親子3人で勤行をするようになりました。「ほかのクラスの子は学会なんかしてないのに、どうして私だけ拝まんとあかんの?」とよく文句を言ってましたので無理にはさせませんでしたが、ここにきて素直に勤行するのです。娘の信心はずっと祈ってきたことでもありますので、まだお付き合い程度ですが少しは道が開けた思いです。

 さらに仕事の面でも新しい仕事の話が進んでおり、今年中に受けるかどうか答えを出すことになっています。厳しい仕事ではありますが、受ければ地域にも貢献できるいい仕事です。

 そういういくつかの現証を見ていますと、根本は私自身の生命が変革したことから、環境が変わってきたことを実感します。周りの環境が変わるから幸せではなく、自分が変わることによって幸せが湧現(ゆげん)してくることを感じるのです。

 家庭や職場において愚癡や不満がたくさんあるのが凡夫の現実です。しかし、それから逃げたり、相手を責めたりするのではなく、自分が変わることによって環境を変えていく。要領ではなく地道に信心しながら悩みを乗り越え、境涯を開いていくのが正道だと思います。


 信心は変わること、「人間革命」すること、幸福になることが目的であり、お題目はそのための手段です。現実生活の中で新しい自分の眼が開くこと、「何か変わってきたな」と新しい発見があること・・・そういった変革の現証を知り確信をつかんでいく人は、悩みがあっても決して行き詰まることはないに違いありません。

 「冥益」(みょうやく)と説かれる信心の功徳は、「顕益」(けんやく)と違い、パッと魔法のように現れはしません。日々の精進においても薄紙をはぐように、木々の成長が目に見えぬとも、10年、20年たてばその成長を見るように、じわりじわりと年月をかけて変革していくものです。

 たとえ苦難の道に遭遇しても、そうした冥益の功徳を楽しみに、粘り強く最後の人間勝利を目指して朗らかに今日も歩いていきたいと思います。





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2020
05.19

光は闇に用なり

Category: 未分類

 世の中全体がまだまだ暗い状況にありますが、必ずいい方向に向かうことを確信しつつ、一歩一歩着実に前進していきたいものです。

 私自身は楽観主義ですので、今の状況にあっても未来に対しても明るい世界を描いて生きています。なぜなら私には妙法があります。これさえあれば万事大丈夫だと信じているからです。

 本当の正しい宗教、哲学というものは、どんな時代状況にあったとしても、また絶望的な局面を迎えても、悩める人に希望を与え続けるものでなければならないと思います。

 環境と個人とは、「依正不二」の原理にある通り、密接不可分なわけですが、だからと言って時代が暗いと自分まで暗くなるのではやり切れません。その暗い状況を打破するために自分自身が明るく輝いていく、また生命力と智慧を発揮して困難な状況に負けないで環境をも変えていく・・・そうありたいものです。



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 その意味で日蓮仏法の灯り(あかり)は闇の中でこそ輝くものです。昼間の晴天の下でライトをつけても何の役にも立ちませんが、人が迷う暗闇の中では灯りほどありがたいものはありません。闇のような逆境の時こそ輝いて世界を照らす・・・その灯りを持っているのが学会員です。信心が強ければ煌々と輝き、弱ければ江戸時代の行燈(あんどん)のようなものかもしれません。中にはパットついてすぐ消える線香花火のような人だったり(笑)・・・それではいけません。

 唐突ですが、皆さんは悩みはお好きでしょうか?たいていの人は嫌いなことと思います。できるだけ悩まないで楽しいことがたくさんある暮らしをしたい、好き好(この)んで悩みや労苦の中に飛び込む人はいないかもしれません。

 ところがこの信心は悩みがないと幸福になれないとなっています。「煩悩即菩提」ですので悩みが悟りに転じ、大悪が大善に変わり、毒が変じて薬となります。まさに「変革」「転換」の宗教です。そして救いようのないひどい人間がまっとうで立派な幸福者になるのが「人間革命」です。その意味で私など誰よりも変革の条件を備えていると自負しています。最初はひどくていいのです。

 「願兼於業」といって、そのままで幸福なのに、あえて重い悪業を背負ってまで生まれるというのですから、これは本物ではありませんか。念仏などは、鼻から逃げることばかりを考えているのですから、所詮法力が違うというものです。

 だから信心するなら大いに悩めばいい。悩みには自分でもわからない深い意味があります。私も「どうして自分はこんなにうまくいかないのだ?いつまで苦しめばいいのだ?」と、長い間、悩み続ける日々を暮らしてきました。その業を恨めしく思ったものですが、ある時からは「これは案外、すごいことになるかもしれないぞ」「最高に幸福になるために大いに悩むようにできているのだ」と思えるようになりました。そこから悩みを楽しむ楽観主義の世界が開けたのです。

 信心があって悩みが深い人は、その意味で幸福になる条件を備えている人だと私は思います。だから悩み多き人に言いたい。「あなたこそ仏様から選ばれて成仏を約束された人です。うつむかないで胸を張ってください!」と。

 「あえて悩みの姿で生まれて「人間革命」して見せるのです。劇です。ドラマみたいなものです。」(青春対話第2巻)と池田先生は言われています。

 20年30年不幸を演じ、最後は大逆転で誰よりも幸福になるどんでん返しのドラマです。ですからすべてを御本尊様にお任せして、悩みに振り回されず、水の流れる如くに信心に励んでいけばいい。「最後は信心しきった者が勝つ!」と言われているのですから、その言葉を信じて「矢でも鉄砲でもかかってこい」との心境でやり切ってみようではありませんか!





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