2017
07.19

組織という名の宝処

Category: 信心
 
64年前の7月21日に池田先生の人選で新たに「水滸会」が発足したそうですが、その折、池田先生が三か条の誓い(水滸の誓い)を示されたそうです。

 それは「御本尊に対する誓い」「師匠に対する誓い」「会員同志の誓い」の三か条です。(聖教新聞「栄光の峰をめざして」7.10日付より)

 とてもシンプルな言葉ですが、私は創価学会の信心の根本がここに示されていると思います。

 この3つの誓いに生きる人は、仏法の軌道に乗り、やがて歓喜と幸福の世界に入っていくだろうと思います。逆にそのうちのどれかが欠ければ、やはり不完全な信仰になるだろうと思います。日々の修行は御本尊に対し、その心をより深く強めていくものだと私は思います。

 その心で信心に励む人達が団結し、「広宣流布」の戦いをしていく・・・それを仏様は、どんなに喜んでくださるだろうかと思います。互いに尊重しながら、信心を高めあう・・・同志が生命と生命で結ばれた家族のように仲良くしていくことも、人としてまったく自然な流れです。

 学会の師匠は、常に民衆の中に飛び込み、民衆と一体となって、広宣流布をされてきました。そこに仏法者の向かうべき正しい道があると思います。ガンジーやキング博士など、人権運動のリーダーも、同志と手をつなぎ、連帯をもって権力や差別と戦いました。真に「一人立つ」人こそ民衆から離れない・・・積極的に同志との連帯を広めゆく人だと思います。






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 組織がなくても一人で、信心はある程度できるかもしれない。しかし「広宣流布」はできないと私は思います。世界広布が進展する時代にあって、しっかりとした組織がなければ、どうして多くの入会者を受け入れ、責任をもって育てていくことができるでしょうか?各自が勝手気ままで、どうやって「異体同心」の勢いが出せるでしょうか?「広宣流布」の信心である以上、それを推進する創価学会に殉じることは、私は日蓮門下として最も正しい生き方であると思います。

 私もかつては素直になれずに、組織に出ない時期もありました。そのどちらもやった経験から、組織に出ないときは、やはり独りよがり(利己的)であり、発展性のないものであったと思います。今、地域の人々と切磋琢磨する中で、生命は「麻畝の性」のごとく素直になり、人間的にも開けてきたことを感じます。

 そこに組織活動による功徳の大きいことを感じますし、何より同志の方と活動している自分を健全に感じます。学会活動が何をするよりも好きになったと言ってもいいかと思います。

 戸田先生は「戸田の命より大切な学会の組織である」と烈々たる気迫で言われました。また「大聖人が創価学会を召し出だされたのだ。学会の信心以外に、大聖人の御心(みこころ)に適(かな)う信心などない。御本尊の本当の功力もない。仏法は勝負だよ。」と言われています。本当にこちらが吹っ飛んでしまいそうな戸田先生の師子吼は、まさに学会こそが宗教界の王者との大確信の言葉であります。

 信心の組織である以上、、教義や運動などその教団の独自性はあります。また内部に傲慢な人もいるかもしれない。負の部分をあげれば、どの組織、団体もあるに決まっています。しかし、学会の本質は、戸田先生が断言されたように、日蓮大聖人が召し出だされた「仏意仏勅」の仏の一団であり、大聖人様御遺命の広宣流布のための陣列です。

 私はそこに偉大さを感じますし、そこで戦える自分を誇りに思います。学会はまさに法華経に説かれる地涌の菩薩の集結の場であり、仏の生命が躍動するもっとも輝かしい宝処であると、私は確信しています。

 それゆえに学会から離れていく人ほど残念な人もいない、これは本当に正直な私の気持ちです。「何があっても学会から離れてはいけない」・・・との池田先生の指導は、人の三世の生命を考えるときに、重い意味があるだろうと思うものです。


 さて昨夜は多くの方が集っての座談会となりました。様々に境遇は違えども、創価の善友であることは皆同じです。「なぜ組織に出るか?」と問われれば「そこに多くの同志がいるから」「この集まりが好きだから」・・・それが私の答です。

 暑い夏を境にいよいよ後半戦、弘教拡大を目指し、意気軒高にやっていきたいと思います。






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2017
07.08

胸中の闇は深くとも・・・

Category: 信心


 世の中には様々な考えの人がおられ、創価に対してもいろんな意見を発信なされています。生まれついて、反創価の生命を色濃く宿しておられると感じる方もいれば、創価を信じたいのにどうしても現状の創価学会を肯定できずに悩んでおられる方もおられます。

 もちろんどう生きていかれるかはそれぞれの道であり、気安く干渉できるものではないかもしれません。私が学会で信心していくということは、自分の意思が好んでそうしているわけで、結局、どの人も自分の心に背いて生きていくことはできないと思います。

 私も一見、学会一筋のバリ活人間のように思われますが、人間の生命というものがそれほど単純でないことも、当の本人が一番よく知っています。池田先生とともに学会でやっていこうというところに命が定まるまでは、私なりの紆余曲折がありました。

 入信以来、陰に陽に魔が出来して、修行の枝は大きく曲げられました。学会に入ったものの、真言の家で10年近く過ごしましたので御本尊様の御安置から苦労したものです。周囲の反対以上に自分のひどさに苦しみ、思うようにいかない・・・御本尊様を恨めしく眺めたことも一度や二度ではないかも知れません。「もう信心はやめます!」と御本尊様を睨んで宣言し、布団をかぶってふて寝した夜もありました。(笑)



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 特に池田先生と自分が一体で信心するという、「師弟不二」の入り口にたどり着くのに30年余りの時間がかかったのですから、いかに私の生命の闇が深かったか・・・その心が確立するまで、信じては疑い、疑ってはまた信じと・・・その反複作業を懲りずにやってきたように思います。そのたびに新たな「信」を奮い起こして前進してきたわけです。

 今、若き青年部が「池田先生」を師匠と求めて信心する姿を見て、「僕はとてもあのころ、あんなふうに「先生!」と叫べなかったなあ、組織にも不信があって参加できなかったし。そうできる連中が内心、不思議に見えてたよ。」と思ったりもするのです。

 その意味で信心の深化と共に自分は変わっていきました。今のように自分が池田先生を師と仰ぎ、「不二」で生きていきたいと思うようになるとは、さほど自分でも思っていなかったのです。

 「学会員だから先生と不二で戦え」というのは押し付けに感じる人もいることでしょう。私が幸運だったのは、人から言われるのではなく、先生と共に生きていこうという自分にみずから変化し、その思いが胸中に確立していったことです。蝶がさなぎから羽化するように、私も自然と「我」というコートを脱ぐことができました。
 
 それは私にとって「発迹顕本」ともいうべき出来事でしたが、それ以来、私の使命も定まったと思います。「学会員として、同志の方と共に妙法流布のために生ききっていこう!」そういう生命の土台が命に座ったのです。

 その功徳は、お金が儲かったというような現世の利益と違い、三世にわたる「心の財」です。「創価と共に自分は来世も生きていくだろう。そうであるならたとえ死んでも、御本尊様と学会のもとに生まれてこれる」・・・そう安心できるのです。

 一日の仕事を終えて、地域の会館、拠点に集い来る同志の方々を、私は本当に不思議な善なる人たちだと感じることがあります。久遠の同志でなくてどうしてここに集うことができるのか?宿縁深厚でなければとてもここに集うことはない・・・偶然、集まったなどということは絶対にないと感じます。

 凡夫の陣列である創価の同志が、御本尊を抱きしめて、それぞれの宿命へと挑戦していく・・・お金も智慧もない、あるのは「煩悩・業・苦」という中を、ただ「信の一字」をもって唱題し、その姿のままで折伏に走る・・・それが我ら地涌の菩薩の本領だと思います。

 たとえ胸中の闇は深くとも、その奥底に仏の生命を信じ、今日も創価の庭で戦う人たちと共に、私も仏界を呼び出だしながら、「太陽の人」となって前進していきたいと思います。







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2017
06.30

「宗教は人なり」-あなたは著名な学会員-

Category: 徒然の記




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 先日、聖教新聞を購読いただいているご近所の婦人から、思いがけず購読が終わるのを機にお手紙をいただきました。以前、そのお宅の牡丹の花の写真をさしあげたことで交流があり、そのことをとても喜んでくださっておりました。前記事のアマリリスの花も、実はこのお宅に咲いていたものです。

 聖教新聞が活気に満ちていること、希望にあふれ皆さんが輝いておられること、また新聞も文字が大きく、フリガナがふられ、カラー写真も多く、大変理解しやすいことなど書かれていました。「そして私の学会に対する認識もだいぶ変わりました」と・・・

 差し上げた写真を額に入れ、室内に飾っておられるそうで、その様子も写真に納めて同封してありました。

 わざわざ早朝の配達時を待って表に出てこられ、手紙を渡されました。牡丹の花の写真を差し上げた時も翌日、「オロナミンC」の10本入りを携えて、高齢の身で私の家を探し歩いて、お礼に来られました。

 ご友人の啓蒙でできたご縁ですが、私も時間を見つけ、手紙の返事を書きたいと思います。この方にとって、学会を知るきっかけの一人が、私であることは考えてみれば不思議なご縁というものです。

 以前、ある幹部さんの話として紹介しましたが、「外部の方にとって、学会員で知っているのはまず池田大作先生だと思います。その次に知っている人といえば、原田会長ではなく地元の友人の皆さんでしょう。その意味で皆さんは池田先生の次に著名な学会員であり、皆さんによって学会の実像が伝わるのです。」といわれたことがあります。

 私もその通りだと思いますし、この言葉はとても大きな意味を持っていると思います。どんなに立派な理屈を並べても、その人が信用されなければ、その言葉もその信仰も正しいとは伝わらない。我々の振る舞いによって学会がよくも悪くも映るのですから、責任を感じます。「信用」「信頼」を得ること自体が大きな折伏だと言えます。


 今日(30日付)の聖教新聞には「天使大学」の教授の方のお話が載っていました。私も初めて聞く大学で、「天使」という名前もインパクトがありますね。(ちなみに看護学科を中心とした2000年新設の北海道の大学です。)

 その教授は長年、創価学会を研究されているそうで、師事された宗教学者の先生からは「宗教は人なり」との指針をいただかれたそうです。その宗教を判断するとき、「テキストではわからない、信仰に励む人の姿を通してしか理解できない」との意です。

 この教授も多くの学会員と接する中で、学会へのイメージが変わっていったことを明かされています。

 またなぜ迫害があっても学会員は前進できるのか・・・それは「私たちは間違っていない」という信仰への強い確信と「疑似家族」ともいうべき固い団結に支えられていると分析されています。

 「異体」という各々個性を輝かせながら、池田先生と共に広宣流布に励む「同心」の集いが創価家族です。その団結ゆえに、これまでの広布と学会の発展があったのであり、これからもそれはすべてに優先する大事な条件だと思います。そのため「魔」はその団結を分断すべく、うごめいてくるものでしょう。

 そのことは「異体同心なれば万事を成じ同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候」(異体同心事・1463P)との御聖訓にある通りだと思います。特に「異心」であれば「諸事叶う事なし」と御断言なされている・・・学会が一枚岩の団結をもって、前進することの大切さが、ここに示されていると思います。

 仏法は人間のための宗教であり、各人が「人間革命」を果たすことが、一番の仏様の願いであると思います。「宗教は人なり」・・・「あのひどかった○○さんが人間革命したよ。確かに蘇生し、変わったんだ。」そういう一人の人間の姿、生きざまの中に、実証として脈打っていくものが、その人にとっての仏法の実体であるのだと思います。

 最近は私の地区も、みんなが仲良く切磋琢磨する雰囲気が出てきました。うれしい限りです。そういう変革も通り一遍の言葉ではできない・・・長年の地道な祈りや行動の積み重ね、試行錯誤や苦闘というべき戦いの中で、育ってきたのだと思います。

 愛する同志の方を抱きかかえ、ともに幸福へと前進しながら、歓喜の渦の中で、「もっともっと革命するのだ」との一念を燃えたぎらせ、まい進していきたいと思います。






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